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「明日への提言」

仏教史に信心の跡を訪ねる

大隅 和雄(東京女子大学名誉教授)

宗教としての仏教の歴史を

 私は、大学では文学部国史学科に入り、大学院でも国史学専攻に在籍した。半世紀前の大学では、戦後歴史学とよばれる学風が盛んで、私の周りは、社会経済史を専攻する先輩・友人ばかりだったが、大学に入る前から、日本の中世の思想や文化に関心を持っていたので、日本史の中で、仏教史に関する研究書や論文を読むことが多かった。

 国史学科では、実証ということが基礎になるので、何かを論ずるためには、先ず史料を探し、集めた古文書を吟味しなければならない。日本仏教史の史料は、ほとんどが寺院所蔵の文書で、寺は宗派に分かれているために、仏教史研究は自然の成り行きで、宗派史の研究ということになる。中世の仏教を通して、日本人の思想や文化を考えたいと思っていた私は、一つの宗派を選んで、その歴史ばかりを考えることになじめなかった。

 日本の仏教は、当初、先進的な外来文化として受容されたので、漢訳仏典の解読、複雑な儀礼の習得が重視され、宗教としての仏教に対する関心は深まらなかった。留学僧は、唐代の寺院で講読されていた経論を持ち帰り、南都・北嶺の寺院では、次々に伝えられる仏典の講義が行われて、新しい学派が立てられた。その結果、仏教史は、教義史、学説史が中心になり、信心・信仰の在り方が問われることは少なかった。

 思想史、宗教史、文化史に関心を持ち、鎌倉時代の仏教について考えたいと思っていた私の周りでは、社会経済史の議論が活発だったが、史料から読み取ろうとする社会経済の情報は、単純な事実に関することがほとんどなのに比べて、思想や宗教に関する史料から読み取らなければならない事柄は、微妙な陰影を持っていることが多いので、社会経済史の友人から、思想史や宗教史の史料の解釈は、確定できないようなことに拘っていて、研究者の主観に左右され、学問的でないといわれることが多かった。

 日本仏教史の研究は、外来の学問・思想の受容と、寺院と宗派の歴史について多くのことを明らかにしてきたが、私は、日本の仏教が、宗教としてどんな在り方をしてきたかについて、問うべきことが、手をつけられないまま、残されていると思った。鎌倉時代に現われた宗教的な達人たちについて、思想・教義の系譜を詮索すること以外に、その宗教体験について考えることが必要なのに、仏教史では、それがまともに取り上げられていない。仏教史は、教義史と、教団の政治史だけではないかと思わざるを得なかった。

 宗教ということばは、幕末、明治の初年に、西欧のレリジョンの翻訳語として受け入れられたことばで、それ以前は信心ということばが用いられていた。私は、日本仏教の中で、「信心」のありようを見極め、捉えることはできないかと考えるようになったが、歴史学の中でどうすればそれができるのか、学生の頃から考え続けて分からないままでいる。

女性と仏教という視点から

 25年前に、京都女子大学の西口順子さんと連名で発起人になり、「研究会。日本の女性と仏教」というサマーセミナーを始めた。女性史、日本文学、民俗学、仏教史などの分野で、女性と仏教というテーマに関心を持つ研究者に呼びかけて、高野山でセミナーを開いたのが最初だった。初め30人だった会員が数年後に、百数十人の会になり、「女性と仏教」は、いくつもの雑誌の特集のテーマになり、仏教史学界の流行の論題になった。

 研究会の話題は、他方面に及んだが、私がこのセミナーを始めたのは、文字、特に漢字の文化から疎外されていた女性が、専ら漢訳仏典に依拠する仏教に、どのようにして触れ、仏教を理解したのかを考えて行けば、学問、学説の修得を目指す仏教とは別の、信心としての仏教の在り方が、見えてくるのではないかと考えたからだった。経論を読み解くことのできない女性が、法会に出て陶酔感に浸ったとき、その法悦はどうようなものだったのだろうか。かな文字も読めない武家、庶民の女性にとって仏教は何であったのか。私は、女性と仏教というテーマをてがかりにすれば、そういう問題に近づくことができるのではないかと思っていた。しかし、セミナーの会員が増えるにつれて、議論は、女性の仏教との関わりを示す史料を探して、女性と仏教の外的な関わりを実証することに傾き、既成の仏教史の枠組の中に取り込まれていった。

 「研究会・日本の女性と仏教」は、1989年の暮にニューヨークで、コロンビア大学の中世日本研究所との共催で、研究会を開いたが、その時、ジェームス・ドビンズ氏が、「恵信尼文書」を取り上げた報告の中で、恵信尼が、夢の中に現われた法然上人の顔が、ただ光ばかりで見えなかったと記していることにふれて、これは中世の女性の宗教的感性を表していると発言したことに、大きな示唆が含まれていると思った。

 サマーセミナーは、年を重ねるにつれて、普通の仏教史に近づいてきたので、1893年の第10回大会を、立正佼成会の普門館の会議室で開いたのを最後に解散した。アメリカではジェンダーの問題などと連繋して続けられ、中世・近世の尼寺とその文化の研究も続けられている。

語りの仏教への関心

 勤務先の公務に追われる身になって、私は女性と仏教という問題をてがかりに、教義史、学説史、社会経済史ではない、信心の仏教史を考えたいという、試みから遠ざかっていたが、教典・聖教による文字の仏教ではなく、説法・語りで伝えられる話しことばの仏教に関心を持ち続けてきた。

 文字言語の外に、音声言語で伝えられる信心について考えると、文字の読めない庶民、特に女性は、貴族でも漢字に親しむことは少なかったから、文字による伝播、書物による布教だけで、日本文化の中の仏教を考えることは、できないのではないかと思うようになった。中世の無文字の世界の仏教の在り方を、考える手立てが簡単に見つかるとは思えないのだが、私は、鎌倉時代後半に、名古屋の長倉母寺という小さな寺に住んでいた無住が書いた、『沙石集』という説法のトラの巻を手がかりに、試行錯誤を続けている。

 『沙石集』という書物は、日本文学史の中では、中世の仏教説話集の一つとされているが、鎌倉時代の仏教の在りようを、多面的に捉え、伝えている特異な書物であると思う。無住の先祖は、鎌倉幕府の有力武士であったらしいが、権力争いに敗れ、無住の家は没落してしまった。貧しい無住は、幼い時に鎌倉の寺に入れられ、関東の寺を転々とする中に、仏教の教学を学び、出家して筑波山の中腹にあった小寺の住職になった。しかし、寺務の煩わしさに耐えきれず、寺を出て、奈良.京都の寺を遍歴した後、尾張の荒れ寺に住み着いて、貧に耐えながら、半世紀にわたる庶民教化の生涯を送った。『沙石集』全10巻は、無住が、寺の周りに集まる庶民を教化するために、続けた説法の記録であるといってよいが、無住の説法を聞いた人々は、文字の読めない人々であったから、『沙石集』を読むことはできなかった。無住は、『沙石集』を58歳の年に書き上げ、87歳で死ぬまで、添削の筆を擱かなかったが、その読者は、公家でも武家でもなく、大寺院の僧でもなかった。無住が念頭に置いていた読者は、東海地方で活動していた、説法僧たち、つまり無住の仲間だったと考えられ、その説法僧たちに、説法のトラの巻として提供したのが『沙石集』だったと考えられる。

 無住の説法の中核は、無住自身の体験、見聞を語った部分であった。文字文化の外で暮らしている聞き手に対して、教典の名を上げ、その一節を講釈しても、理解し聞き入れられることは期待できない。文字の読める聞き手に対しては、何々経に曰く、某僧正の伝にありなどというように典拠を上げれば、受け入れられ、納得されるであろうが、それで無文字の相手を説得することは難しい。

 無住は、庶民の生活の中の話題を選び、仏の慈悲や、因果応報を説き明かし、信心について緩急自在に語って行く。平俗なことばの語りの後には、自分が見聞したことだ、話の当事者の孫から聞いた話だ、その僧の弟子が語ったことなどと記し、たしかなことだと念を押すことを忘れない。近年のこと、近隣のことだという説明も多い。典拠を上げることができない庶民の話には、たしかなことだと、繰り返さなければならなかった。

 話しことばの説法を書いた後、無住は、説法僧の参考のために、経論や聖教の一節を引用して、語ったことの意味を述べる。さらに、説話集や僧伝の類話を並べて、説法を展開させて行くための材料を提供する。そういう記述を積み重ねたのが「沙石集」全10巻であった。一宗一派に偏らず、広く仏教を学び、諸国を遍歴した無住は、東海地方の民間布教僧の間で、一目置かれる存在になっていたものと思われる。

 『沙石集』の中で、話しことばの雰囲気を伝えている部分は、信心というものについての語りが多い。無住はひたすら信じることを、「深信(じんしん)」といい、道理を了解して信じることを、「解信(げしん)」といっているが、経論や法語を引き合いに出した段は、解信の勧めで、話ことばの語りは、深信への導きだったように思われる。

 このところ私は、『沙石集』の語りの部分を手がかりに、中世の信心について考えているが、日暮れて道意しの感一入である。


◆プロフィール◆

大隅 和雄(おおすみ・かずお)      (1932年生)

 福岡県福岡市に生まれる。1955年、東京大学文学部国史学科・卒業。同大学大学院文科学研究科修士課程国史学専攻に進学。1969年、博士課程を中途退学して、北海道大学助教授、文学部史学科。1977年、東京女子大学教授、文理学部史学科。2001年、定年退職、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、大阪大学、九州大学、早稲田大学などの非常勤講師、北京日本学研究センター、ハンガリー.ブダペスト大学の客員教授。韓国・誠心女子大学佼の講師を務める。日本思想史学会会長を務めた。現在、醍醐寺文化財研究所所長。東京女子大学名誉教授。

著書

『聖宝理源大師』醍醐寺、『中世思想史への構想』名著刊行会、『愚管抄を読む-中世日本の歴史観一」平凡社(後に講談社学術文庫)、『日本史エクリチュール」弘文堂、「事典の語る日本の歴史』そしえて(後に講談社学術文庫)、『中世歴史と文学のあいだ」吉川弘文館、『日本の文化をよみなおすj吉川弘文館、『方丈記に人と栖の無常を読む』吉川弘文館、「中世仏教の思想と社会」名著刊行会

(CANDANA239号より)

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