• HOME
  • 「明日への提言」

「明日への提言」

無財の七施に照らされる元気な国勢を目指して

今井 正直(日本大学教授)

(1)東日本大震災の発生

 平成23年3月11日(金)、私たちは今まで経験したことがない大震災に直面することとなりました。大地は不動なるものと思われていますが、地球スケールの視点から見れば、流動するマントルの上に浮かぶプレートと呼ばれる浮島のような存在なのです。マグニチュード9.0という莫大な地震エネルギーによって発生した強烈な大津波によって、自動車や家、船舶までもが波間に浮かんでは破壊されるという惨状を、息をのんで見守るしかありませんでした。

 マグニチュードが1大きくなるごとに地震のエネルギーは101.5 倍(約31.6倍)と定義されているので、マグニチュードが2つ大きくなると1000倍、4つ大きくなると100万倍、5つ大きくなると3200万倍の大きさになります。身体に感じる余震のマグニチュードは平均して4レベル程度ですから、如何に本震のエネルギーが大きかったかがわかります。

 加えて、深刻な原子力発電所の事故を引き起こし、収束の見通しが立っていません。放射性物質の汚染が深刻な地域では、ご遺体自身から強度の放射線が出て、お棺に収容することすら叶っていません。取り残された家畜は餓死し、私物を取りに自由に自宅に戻ることすらできません。私たちはこの悲惨な現況を分かち合い、直接被災された方々がこれから先に向かい合われる困難が少しでも緩和されるように英知を集め、国民の連帯を高める必要があります。

(2)元気と客気

 甚大を極める災禍とともに、世界の人々が注目したことがあります。それは被災された人々自身が助け合う姿であり、集団的な騒乱や略奪が起きることもなく、公の秩序を守り、極限の苦労を分かち合う忍耐と節度に富む人々の姿でした。多くの支援が国の内外から差し伸べられましたが、被災された方々の姿勢に、むしろ、被災を免れた私たちが元気づけられたのではないかと思います。

 最近、「○○から元気をもらった」とか、スポーツ選手などが「見ている人に元気を与えられるように頑張りたい」なる言い方が多くなりました。あるいは、「勇気」や「感動」にも同様の言い方が多く見られるようになりました。元来の「元気」の意味するところは、人間の、あるいは「いのち」ある営みの中に「元々(根源的)に宿っている抜き差しならぬ生気」を意味します。他からもらったり、与えたりできるようなモノではなく、その人に固有に備わった「生きようとする力」を指しています。自分の「元気」に気づかせてもらうことが、「元気づけられる」とう言葉の本来の意味であり、その点で、最近のマスコミ等で一般化しつつある上記の表現は明らかに誤用であるように思います。日本人が日常の挨拶で、「お元気ですか?」と尋ねているのは「あなた自身の生きる力(元気)を体現されていますか?」と言うほどの意味深長な挨拶であり、我々の祖先から、そのような意味の言葉を日常の挨拶と受け継いでいることを誇りに思います。

 ちなみに「元気」に対して、「客気」と言う言葉もあり、あたかも、「お客」のように、ここに居るかと思ったら、いつかはいなくなるという意味で、今までは、意気揚々としていたが、一旦、大事に臨んではその場の取り繕いに終始している状態を指し、まさに「元気がない」と言うことになります。今般の震災関連の報道では、被災地域の首長の緊張感は伝わってきますが、政府や原発関係の記者会見では見ている側までが、元気をなくしてしまいそうです。

(3)人格的資質としての祈りと誓願

 お揃いの真新しい防災服を東京で着用し、会議に明け暮れて大義に至る気配がない人々は、言葉自身に一貫性が無く、自ら風評拡大のお先棒を担ぐ始末です。「群居すること終日、言、義に及ばず、好んで小慧を行う。難いかな」と、『論語』(衛霊公第十五)にあるように、バラマキとつじつま合わせに終始している現況からは、彼らを選んだ私たちも国家の展望に乏しかったと認めざるを得ません。

 被災地域の人々のひたむきな忍耐と連帯は、この災禍を通じてさえ、日本の誇りを呼び起こす力を持っておられるように思われます。一方、国家的なリーダーとして働いてもらう人々に必要な人格的資質とは何だったのか、改めて問われているように思います。

 仏教は、何か大きな力のある人が出てこの世が良くなるとか、財や才能に富んだ人が出てこの世が良くなることを説いている教えではありません。この世は因縁で成っており、因縁次第で善くも悪くも変化して、一時も止まざる世界であると教えています。一人の力は小さくても、一人から善も悪もすべてが始まっており、しかも、現れとしての善悪は深く探れば一如であると説いている教えです。

 特定の個人や思想を推薦して、リーダーと仰げばこの世がたちまち良くなるかのような錯覚を政治の仕組みは犯しがちです。とりわけ仏教は個人・個人の日常の因縁次第を教えに照らして、生きとし生けるすべての因縁を向上止まざる日常に導こうとする普遍的な願い、これを等しく分かち合うことを勧めています。仏教徒が政治と距離をおくことは、法律に記されている以前から、もとより自明と言えるでしょう。社会の仕組みとかけ離れて、我々が生活することはできませんから、政治に関心を持つことは当然です。しかし、特定の個人を強度に推薦する行為は、上記の仏教の本義と矛盾する一面があることに大いに留意すべきでしょう。今後、厳しく検討すべき課題であると思います。

 因縁の積善を厭わず、ひたむきで、謙虚な思いが人を引き付け、人を立ち上がらせると信じます。その人自身が声高に叫ばずとも、その姿勢にひかれて人々の思いがまとまり、まさに自分の中にある「元気」に気づかされる思いを噛みしめるのです。自らの生命に、借り物ではない固有の灯があることを掴み取り、それに深く頷く心を、私たちは自燈明と教えて頂いているのではないでしょうか。

 自燈明は「自(みずか)らを燈とする」ことと共に、「いのちに自(おの)ずから宿る燈(元気)」が天地を貫く法(のり)に一致しているという喜びです。自分は人に祈られているようにみえて、すでに法に祈られて、法に願われて存在している自己であることに気づく時に、人は立ち上がることができます。受精に始まる生命の誕生から、親による無私の養育が、恩師の働きかけが、隣人の深い好意が……、五感では気づくことができない法の祈りと法の願いをまざまざと現しています。法燈明とはまさにこのような謂いでしょう。

 法の祈りに適う自らに因って、自らが在るという「自由自在」性を持つか否かが、このような大事において否応なく露呈して来ます。「昨日亡くなった人にとって、今日と言う一日はどうしても生きたかった一日」という言葉があります。震災の津波の中を臨死とも言うべき体験をされた方々が自得された今日一日の価値は如何ばかりでしょう。利権のしがらみに陥っている人が理解することは望むべくもありません。

 天皇皇后両陛下をはじめとする、皇室の被災地へのお見舞いのお姿に私たちは多くを学び、それぞれの立場で心の安寧を回復することができることは、日本人として洵に幸いなことと思います。ご公務の軽減が検討されているご健康とご高齢にもかかわらず、深い祈りの中で日帰りの日程を甘受され、膝を折って一人一人に言葉掛けされる姿に、私たちも等しく元気づけられるのは洵に有り難いことです。

(4)布施行に始まる復興を

 当日の私は学生の安否確認と共に、深夜の体育館で帰宅できない学生と一夜を明かしました。深夜に配給された水とパンを分け合って空腹をかろうじて癒しておりました。刻々と流される信じ難いニュース映像に見入っている学生も教員も次第に無口になり、日本がただならぬ状況に一転して陥ったことに衝撃を覚えました。

 体育館では、避難用に備蓄されていた毛布の梱包を解く人、配る人の役割が自発的に生まれ、お互いに譲り合い、床にダンボール紙を敷いて横になることができる隙間風のない場所を探しました。私の研究室から持参した電源テーブルタップには携帯電話の充電を希望する多くの人が行列を作りました。体育館に付属する柔道場だけでも暖かくとの配慮で、停止していた体育館の暖房を担当職員が深夜に出勤して臨時に作動させてくれました。

 私はその中にいて、目の前で行われている人々の好意の数々は、「無財の七施」と説かれている布施行そのものではないかと思われたのです。無財の七施は、たとえ、地位や財産がなくても、誰にでも、いつでも、いつまででも、容易に実践できる布施行として『雑宝蔵経』に説かれています。曰く、眼施:慈しみに満ちた優しい眼差し。和顔悦色施:にこやかな顔で接する。言辞施:優しい言葉で接する。身施:自分の身体を動かすことで奉仕する。心施:他者への心配り。牀座施(床座施):席や場所を譲る。房舎施:自分の家を提供し、休息やもてなしの場を提供する。

 体育館でその夜に身近で体験した実践の姿は、まさに七施の典型でした。それは、報道で知る多くの被災地の避難所でも行われ、今も行われていることでしょう。直接被災していない人々から、被災された人に向けた支援ばかりでなく、被災された方々が相寄って、連帯して困難な日常を支えているところに、また、被災した子供の笑顔にも無財の七施の尊い姿を学び取ることができます。

 「無財」は、言辞上では単に「財が無くても」と言う意味であろうと思いますが、「財を超えた」あるいは「財には代えられない……くらいに高い価値がある」と言うことも、内包した言辞としての「無財」であると思います。仏教では「無」は単に「無い」という意味の他に、「無量」「無学」のように「量ることができないくらい豊かに多く……」、「これから学ぶことが無いくらいに豊かに学びを修めた……」という意味もあると教えて頂いております。

 今夏は電力の供給不足が懸念されていますが、現在の豊かな生活水準は原子力に依存したエネルギー供給に基づいていることも周知することとなりました。布施に続く五波羅密(持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)はこれからの英知の結集と連帯にとって、大切となる徳目の順序次第を端的かつ明確に示しているように思います。言葉だけが躍るスローガンでは真の復興は立ち行きません。

 私たちは今こそ異体同心をもって、この難局を克服し、もって国家の徳を高めたいものであります。国家財源の多寡によってのみ、国勢が決まるとも思えません。財源が少ない「無財」さえも、むしろ復興の縁として、「無財の七施」を誓願となし、自らを照らす元気な国造りに弛みなく邁進したいものであります。


◆プロフィール◆

今井 正直(いまい・まさなお)       (1955年生)

富山県高岡市に生まれる。

昭和51年 国立富山工業高等専門学校工業化学科卒業

昭和55年 東京大学工学部化学工学科卒業

昭和60年 東京大学大学院工学系研究科化学工学専攻

博士課程単位取得

富士石油株式会社、東京農工大学工学部を経て、平成10年より日本大学生物資源科学部に勤務し、現在、日本大学教授、工学博士(食品生命学科 食品生命工学研究室)日本食品工学会評議員

著書:『バイオセパレーションプロセス便覧』共著(共立出版、1996年)   『バイオ生産物の分離工学』共著(培風館、1999年)など

(CANDANA256号より)

掲載日

ページTOPへ

COPYRIGHT © Chuo Academic Research Institute ALL RIGHTS RESERVED.