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「明日への提言」

強者の責任と弱者の責任

福島 哲夫(大妻女子大学教授)

 臨床心理士としてカウンセリングをしている時、基本的には傾聴に徹する。大まかに見積もってこちらの発言量は全体の約3割以下である。しかし、そんな中でも、ある程度信頼関係が築かれたと感じられてから後に、こちらの感じたことや考えたことをはっきりとお伝えしなければいけないこともある。そのような私の発言のなかで極めて評判の悪い言葉がある。それは「あなたの現在の苦しみの原因の多くは、たしかにご両親にあるかもしれない。でも、大人になってしまった今のあなたにとって、それをどうするかの責任はあなたにあると思います」という言葉である。

 私がこのように言う相手は、両親が昔から毎日のようにひどい夫婦喧嘩や児童虐待に近いことをしていたり、そこまでいかなくとも精神的に幼すぎる親だったために、大人になった今も心理的にとても苦労しているという方々である。ここで言う心理的な苦労とは、主に極端に自信が持てない、人をなかなか信頼できない、感情が不安定になりやすい、あるいは気分が落ち込みやすく元気が出にくいなどの苦しみである。

 これらの苦しみは、決して甘えやわがままではなく辛く深刻なものである。しかし、それでも時々私は「それをどうするかの責任はあなたにある」と言わざるを得ない。それは、ご本人が「今の苦しみにとらわれて、そこに安住しようとしている」とか「その苦しみを振りかざしている」と確信できる時である。もちろん苦しさは深刻なものなので、一時的には安住したり振りかざしても無理はない。それでも、たとえゆっくりとでもそこから抜け出そうとしている時には、それを応援したり一緒に作戦を練ったりできる。けれども、「安住」や「振りかざし」が長期に続いていて、いっこうに抜け出そうとしている様子が見られない場合には、上記のように言わざるを得ないのである。

 それでも、この私の発言はすこぶる評判が悪い。どうやらこの「責任」という言葉が受け入れられにくいようだ。

 責任には様々なレベルがある。国家や地域、あるいは会社などを護ったり指導する立場にある人の責任は当然ながら重大である。しかしより日常的な責任として、家庭内や職場・近隣社会における責任もある。そして、それらの場所においても、そこで支配的・指導的な立場にある人の責任はもちろん、それとは別に支配される側、指導される側の責任も当然ながらあると私は考える。

 いずれの場面においても、支配者の強権ぶりや独裁度合いの違いによって、被支配者の自由度は全く異なって来る。また、未成年の場合は生存そのものを脅かされている場合があるので、この際、除外して別の機会に論じたい。しかし、とりあえずの区切りとして20歳を過ぎた人は、誰でも例外なく、たとえば家庭内において「何とか自分の辛さを伝える」とか「その辛さを減らす工夫をしてみる」という責任は負っているのではないだろうか。もちろん場合によって程度の違いはある。しかし、本質的にはこのような責任を全員が負っていると私は考える。そしてさらに「辛さを伝えたらその言葉に責任を持つ」「自分が試みた工夫や試行錯誤の結果には責任を持つ」ということまで求めたら、酷だろうか。

 具体例に即して考えてみよう。(以下の例は、私の所にカウンセリングを受けに来た方々の中から典型的と思われる何人かを合成して、プライバシーに配慮して再構成したものである)

 50代の女性が、ご長男のことでカウンセリングを受けにいらした。30歳間近のご長男は大学を卒業した後に全く働こうとしないということである。息子に直接カウンセリングして欲しいというご希望も強かったので、まずは両方にお会いした。息子は見るからに内気そうで、やっと話し出すとその内容からも極端に内向的な性格であることがわかった。一方で母親は情緒豊かで感情的な性格だったため、息子のことを心配するあまり、時々ヒステリックに、「何で就職しないの?」等と続けざまに叫んでしまっていた。母親自身の心の安定も重要と考えて、別々にカウンセリングを受けることをお勧めした。ちなみに夫はエリートサラリーマンだが、息子には甘いとのこと。また3歳下の妹は、一流大学を卒業して外資系の会社に就職してバリバリと働いているとのことだった。

 息子は内向性の長所としてとても読書家で、ポツリポツリと語り出す言葉は、熟考を重ねた上でのものであることが多かった。しかし、そのせいもあって話の合う仲間がおらず、友人は中学高校大学を通じてほとんどいなかったとのことであった。

 一方で母親は毎回のカウンセリングで、「私の育て方が悪かったんです」と悔恨の涙を流し、ひとしきり泣かれるとスッキリした表情で帰って行かれた。息子のカウンセリングは、「認知行動療法」という「自身の考え方を修正して問題解決に近づけていく」手法を取り入れて進めていった。

 しかし、どちらのカウンセリングも半年程したところで停滞期を迎えた。2人ともしっかりとカウンセリングに通ってはこられるが、行動上の変化は全く見られないのである。母親はひたすら過去を悔やみ、息子は自身のことを振り返りつつも、新しい試みをしようとはせず、母は時折息子に叫んでいた。そればかりか息子は「こんな僕だからしょうがないんだ」という発言とともに、カウンセラーのことも、新しい行動をも蔑んでいるかのような言動が目立つようになっていった。

 そこで私は、母親には「悔恨への安住」が、息子には「自己卑下の振りかざし」が定着していると感じ、これまでの受容的な態度を少しずつ「各自の責任を問う」姿勢へと変化させていった。冒頭のような厳しい言葉もお伝えした。その中で次第に明らかになったのは、家族のこれまでの歴史であり、母親が良かれと思って子どもたちには伝えずに一人で耐え忍んできた夫婦間の問題だった。そこに怖くとも少しずつ向き合っていってもらい家族会議で真剣に話し合ってもらった。そうすることで初めて、息子もアルバイトから始めて、現実の中で活動するようになっていった。

 この事例から私たちは多くのことを学べる。また、学ばなくてはいけない。

 たとえば、ここで専門外についての発言を許してもらえるならば、この70年近く日本は国際社会において経済的にはともかく、政治的・軍事的には弱者だった。しかし、その弱者としての責任を十分に果たしてきたと言えるだろうか。つまり、自らの苦しい立場をしっかりと訴えようとし、そこから抜け出そうと試行錯誤してきただろうか。また、この100年近くの日本の歴史の中で、指導的な立場の人が自己の判断に関して責任をとっているように思えない事例は枚挙にいとまがない。そしてさらにさまざまな身近な事象の中で十分な責任を果たしてこなかった人があまりにも多いようにも見受けられる。このような歴史的事実とこのご家族の問題は無関係とは思えないのである。責任を果たそうとしない人が多い国で、責任を果たそうとしない家族が増えるのは当然のことと思えるからである。

 インターネットの世界や言論界、あるいは家族関係においては強者と弱者が比較的入れ替わりやすいというのも現代の特徴であるし、それはそれでいいことかもしれない。しかし、いずれにしても強者は強者として、弱者は弱者としてそれぞれに責任を負っているということを忘れたくない。そう言えば、この1年で急増した街中を暴走する自転車に乗っている人たちも、自身を弱者ととらえているのかもしれない。しかし、このような自転車こそ車道では弱者、歩道上では圧倒的強者なのである。どちらを走ってもその責任からは逃れられない。

 このようなことは筆者の現場でも頻発している。上述のような事例はまだしも、さらにもっと増えている事例としては「今すぐに何とかしてほしい」「手っ取り早いいい方法はないのか」「専門家ならいい方法を知らないか!」という方がほとんどなのである。反対に「なぜ、こうなってしまったかをじっくり考えたい」「これまで○○と△△と、さらに□□を試みてきたのにうまくいかなかった。今後はどのように試行錯誤すればいいのだろうか」という相談はとんと受けなくなった気がする。そして、書店の心理学や自己啓発コーナーに行くと、「手っ取り早く元気になって、前向きに頑張ろう!」的な本が溢れ返っていることに圧倒される。

 私たちはここ数十年であまりにも自らの心の内の「暗さ」や「闇」「内向性」に対して責任を取らずにきたのではないだろうか。そしてこういった「暗さ」や「闇」「内向性」を引き受けずに無視し続けたあまりに、かえってうつ病や引きこもりの問題に困っているのではないだろうか。

 これらはすべて世の中の「ファストフード化」「コンビニ化」の流れと同じものであろう。そしてここにも、供給者側はもちろん、サービスを受ける側の責任も大きいことに変わりはない。サービスを受ける側の責任と言えば、食品、教育、情報、医療等々、消費者として、賢さと責任が求められているのはすでに周知のことである。消費者が賢さと責任を持たずにいると、気づかぬうちに大きな損害を受ける時代になってしまっている。それは社会学の領域でウルリッヒ・ベックが唱えた「リスク社会」として、広く認識されていることでもある。けれども、その割には心理療法やカウンセリングを受ける消費者や、社会的支援を受ける側の賢さや責任感が、この20年程でかえって低下している感じがするのである。

 以上述べてきた「責任性」とは、その背後にスピリチュアリティ(霊性・精神性)が分ちがたくつながっている。それはたとえば「この時代のこの国のこの親の下に生まれた」というある意味理不尽なものをどう引き受けていくかということでもある。そして「変え得ざるものを受容する慎みと、変えうるものを変える勇気と、この2つを見分けるための知恵を(神よ与えたまえ)」という、ラインホルト・ニーバーの祈りの言葉にも通じるものだと思っている。

 このニーバーの祈りには「決してこの場からは逃げないが、安住するのみでもない」「変えられるはずのものを変えられないと振りかざしたり、変えられないものを変えろと振りかざしたりはしない」という覚悟が感じられる。神に祈るという形の「弱者」としての表明であるが、そこには信仰者としての責任感がみなぎっていると思えるのである。


◆プロフィール◆

福島 哲夫(ふくしま・てつお)       (1959年生)

埼玉県生まれ。明治大学文学部卒業、慶應義塾大学大学院博士課程単位取得満期退学。臨床心理士。以来、東京の青山心理臨床教育センターにて心理療法の実践と一般向けから専門家向けまでの教育講座を行う一方、ユング派の精神分析のトレーニングを積む。1999年大妻女子大学人間関係学部専任講師、現在同教授。(青山心理臨床教育センター 03-3486-4617)

【おもな著書】『ユング心理学でわかる8つの性格』PHP 研究所 2011、

『新世紀うつ病治療・支援論-うつに対する統合的アプローチ』共編著 金剛出版 2011、

『事例でわかる心理学のうまい活かし方-基礎心理学の臨床的ふだん使い-』共著 金剛出版 2011、『図解雑学カウンセリング心理学』ナツメ社 2010、

『面白くてよくわかる臨床心理学』アスペクト 2009、

『面白くてよくわかるユング心理学』アスペクト 2009、

『自分でできるカウンセリング心理学』PHP 研究所 2003、

『図解雑学ユング心理学』ナツメ社 2002、

『心理療法のできることできないこと』共編著 日本評論社 1999、

『心の法則』廣済堂出版 1994、

『自分探しの心理学』廣済堂出版 1992。

(CANDANA250号より)

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