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「明日への提言」  バックナンバー: 2018年

汎自然主義 ― 生命への凝視

尾登 誠一(秋田公立美術大学大学院教授)

 

デザインは愛である

  若輩期、大学での学びの規範は、恩師、小池岩太郎先生の哲学「デザインは愛である」ということばだった。当然、未熟で好奇心旺盛の小生には、この薫陶の本意は理解できず、後に社会でデザイン提案し、また母校で教鞭をとるなか確認されたように思う。製品開発と将来これを目指す学生と向き合う教育・研究は、道具世界のみならず、これを考え提案する「人間」への洞察なくしてはありえず、思いやりや慈しみ、心への呼びかけの常態実践を信条としている。ものごとには入口と出口があって、母校退任のおり妙に気になったこと、それはデザインは愛であるというこだわりの帰結デザインテーマであったように思う。当時、私の母は96歳の高齢で余生短い病院生活を送っていたが、母のためのデザインは考えたことがなかった。そしてごく自然に母を此岸から彼岸に送る渡し船「君子さんのゆりかご」を作意させた。デザインは決してカッコイイものではなく、日々暮らす生活の場で気づく、人としての当たり前の行為であり、デザイナー以前に人間であるべきだというこだわりにより成立するように想う。 続きを読む


良寛に学ぶ

加藤 僖一(新潟大学名誉教授)

1.子供への愛情

 良寛さんといえば、子供たちと無邪気に遊んだ人というイメージが強い。遊びの内容としては、まりつき、かくれんぼ、空中習字等が代表的である。まりつきにはマリが必要だが、当時はゼンマイのワタを中にして、そのまわりを糸でグルグルとしばったものだから、それほど高価な費用はかからない。かくれんぼは全く何の費用もかからない。空中習字も、一般的に習字をするには、筆、墨、紙等が必要だが、良寛の空中習字は、大空に向かって「いろは」や「一二三」を書く程度だから、全く費用を必要としない。
 それより良寛はなぜ子供たちとよく遊んだのか。従来、良寛がお百姓とともに田畑を耕すわけではなく、ただ両親が田畑で働くあいだ、子守役をしたという程度に考えられていたが、群馬県高崎市在住の町史研究家・永岡利一氏によって、新田町の木崎におびただしい飯盛り女たちの墓石があることを見出し、研究に着手された。その墓の文字を読んでゆくと、新潟県出雲崎、寺泊、地蔵堂等の出身者が多く、それはまさに良寛の住んでいた地域と年代に合致しているのであった。墓を建ててもらった人はまだ運がよい方で、大半は大きな穴を掘って、埋められたという。越後は米の生産地として知られるが、いざ台風に襲われたりすると、一気に大水が出て、丹精した稲が一度に流され、年貢におさめる米も、自分たちが食べる米もなく、娘を売る以外に何の方法も考えられなかった。売られていった娘たちは右も左もわからぬまま、土蔵に閉じ込められて折檻され、多い時は1日に10人もの客をとらされたそうだ。
 お金で買ってきた娘たちだから、おそらく食べるものも十分ではなく、夜寝る前には「お母さん」の名を呼んで、涙を流していたに違いない。
 良寛は毎日遊んでいる娘たちの中に、いつ売られてゆくか知れない実態を承知していて、たとえ短い時間でも、楽しかった思い出を作らせようと考えたのではなかろうか。
 こう書いてくると、群馬の人たちは何と残酷な、と思われるが、やはりそれぞれの立場でそういう生活を営まざるを得なかったのであろう。
 なお昭和61年に作家の水上勉氏が『良寛を歩く』を日本放送出版協会(現在の株式会社NHK出版)から出版され、木崎の飯盛女の話が、かなり公然と知られるようになった。
 なお平成23年10月20日、新潟市中央区古町通りに全国良寛会の「ふるまち良寛てまり庵」が開設された。その数軒隣に「明和義人館」があった。それまで私は「明和義人館」とは何なのか全く知らなかったが、立て看板の解説を読むと、「明和5年(1768)、前年からの大飢饉により、長岡藩に納めなければならない1500両のうち、半金の750両は捻出できず、とうとう9月26日の夜12時ころ、涌井藤四郎、岩船屋佐次兵衛をはじめ千人近くが蜂起し、約2か月の間、町民による町政が行われた。その後町民一揆は鎮圧され、中心人物は極刑に処せられた」と説明されている。私が現在住んでいる新潟市内で、こういう事件があったのである。明和5年といえば、良寛の11歳にあたり、まさに良寛の少年時代であった。良寛の時代はまさしく、こういう状況であった。
 なお越後平野の洪水被害は、170年をついやして、信濃川の本流から日本海へ水を流す分水が作られ、水流を調節して洪水が避けられるようになった。
 当時は何の機械力もなく、ただスコップで砂をかき出すだけで、殉職者は83名、工事の完成は大正13年3月であった。
 現在の平和な生活は、過去のこうした人々の犠牲によって、成立しているのである。 続きを読む


宗教団体は不必要なのか

石井 研士(國學院大學教授)

スピリチュアルの流行と衰退

 平成10年代、それとも21世紀になってといった方がいいだろうか、メディアを通して「スピリチュアル」とか「スピリチュアリズム」という言葉が頻繁に聞こえてくるようになった。一般的に知られるようになったのは江原啓之によるところが大きい。2001年に刊行した『幸運を引き寄せるスピリチュアル・ブック』がベストセラーになり、江原はテレビ番組にレギュラー出演して人気者になっていった。

 他方で現代社会における宗教のあり方を研究する者の中には、アメリカ1970年代に生じたニュー・リリジュスコンシャスネスやニューエイジ運動に見られた極度に私的な宗教性をスピリチュアリティと呼び、日本ではメインカルチャーとして存在していると主張する島薗進のような研究者が現れた。島薗の他にも樫尾直樹『スピリチュアリティを生きる』(2002年)、伊藤雅之『現代社会とスピリチュアリティ』(2003年)、伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編『スピリチュアリティの社会学』(2004)と、スピリチュアルを中心に据えた研究成果が刊行され、島薗の著作とともに、新しい概念と研究領域を提案したのだった。

 2010年には、日本宗教学会の機関誌『宗教研究』が「スピリチュアリティ」を特集し、16本の論文が寄せられた。巻頭の編集委員会による編集意図によると、スピリチュアリティに関する諸研究には大別して二つの方向性を指摘できるという。ひとつは「狭義の宗教以外という意味での非宗教的領域におけるある種の超越性の感覚を補足するもの…、いまひとつは、宗教現象の核としての宗教意識や宗教体験を「スピリチュアリティ」という用語で捉えて、宗教の本質に迫ろうとする研究」であるという。

 以上の説明を見ればわかるように、いろいろな思惑が「スピリチュアリティ」を巡って働いていた。オウム真理教事件で、宗教に対する厳しい視線やアレルギーを回避したいという思惑も見え隠れしていたように思う。ところで、私は現代社会と宗教を研究領域としながら、「スピリチュアル」にかかわる論文をいっさい書かなかった。当初からこの概念を使って現代社会を分析することにいくつかの抵抗を感じていたからである。 続きを読む


絶妙のバランスで創られている自然を観ずる

小池 俊雄(東京大学名誉教授)

氷が水に浮くわけ

小学生高学年の頃、なぜ氷が水に浮くのか分かりませんでした。担任の先生は、水は氷より重たいからと説明して下さいましたが、柔らかい・・・・水が重く・・て、硬い・・氷が軽い・・とはどうしても合点がゆきませんでした。この理由が分かったのは高校生になってからのことです。水素原子2個と酸素原子1個の共有結合で作られる水分子は、酸素原子に2つの電子対が残るために原子の周りの電子雲が酸素側に引き寄せられて、水素原子側が陽極(+)に酸素原子側が陰極(-)に非常に大きく電気分極します。液体状態の水分子は水素原子側の+と別の水分子の酸素原子側の-が相互に電気力で引き合うので自由には動けるわけではありませんが、それでも水分子の運動エネルギーが大きいために複数の水分子が相互に重なり合う場合があり、結果として単位体積当たりに含まれる水分子の数は増えます。一方、固体の氷になると、水分子の運動が抑制されて水素原子側の+と別の水分子の酸素原子側の-が堅く結びついて(水素結合)、六方格子とよばれる空洞の多い構造体となって単位体積当たりの水分子の数が減ります。このために、硬い・・氷は柔らかい・・・・水より軽い・・ということになるわけです。

もし、氷が水より重かったら私たちの住む地球はどのような姿になったでしょうか。 続きを読む


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