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「明日への提言」

臨床スピリチュアルケアの視点

伊藤 高章(立正佼成会附属佼成病院チャプレン)

 昨年4月より、立正佼成会附属佼成病院チャプレンの職をいただいている。また以前から大切にしている、がん医療に携わる医師・看護師・薬剤師・医療ソーシャルワーカー・心理士・作業療法士・理学療法士の方々との学びの機会を、継続している。臨床スピリチュアルケアという学問領域の研究を深め普及に努めるとともに、久々の臨床での実践に関わる日々である。

 昨今の日本では、スピリチュアリティをはじめとする「宗教」を連想させる領域について語ることが難しい。第二次大戦後の日本社会は、意図的にその言説を抑制してきた。宗教に関する議論が成熟していない感がある。そのため、世界保健機関 WHO が人間の健康を4側面(身体的 physical・心理的 mental・社会的 social・霊的 spiritual)から捉える姿勢を明確にしているが、日本社会ではこのスピリチュアルの座りが悪い。宗教やスピリチュアリティに関する全体的な議論は他に譲ることとし、ここでは医療やケアに関わる臨床スピリチュアリティについて考えてみたい。

生命の流れの中の人間

 人間は38億年(40億年±2億年)の生命の流れの中で現在の姿となっている。私たち一人一人を形成している細胞中の遺伝子は、38億年前に誕生した生命と直接に繋がっている。すべての人には生物学的に父と母がおり、その父と母にもその父と母がいる。それは脈々と(さまざまな進化の過程を経ながら)38億年前の最初の生命へとたどることが出来る。生命存続の原理が多産多死であることを考えると、38億年のラインがこの私に繋がっていることは奇跡である。たとえば、無数の魚や虫の卵もしくは何十頭かの子の中から、生き残り成長し次の世代を生み出す個体がどれほどいるのか。天文学的な数の、生き残れなかったいのち、他の生命の餌食となっていったいのち、子孫を残す前に死んだいのちを身近に感じながら、私の祖先はたまたま生き残った。もしあの時捕食者に捕まったのが、すぐ前にいたあのいのちでなく私の祖先であったとしたら、今の私ではないいのちがここにいるのかもしれない。私が私として、あなたがあなたとして、今ここにこのいのちとして存在することは奇跡である。あなたも私も奇跡の38億歳である。しかも、宇宙の歴史の中で同じ遺伝子構造(ゲノム)を持つ個体は、一卵性双生児を除き存在しない。加えて、人間の脳は生まれてから発達する部分が多くある。遺伝によって決定される要素は部分的である。私という何重にもユニークな個が存在することは奇跡である。

 このユニークなあなたや私は、実はこの38億年の生命の最先端にいる。私が生きるいのちの年月が、生命の流れをそれだけ進めることになる。生命が私を産み出しこの世界に送り出してくれたが、私のいのちが生命の恒久の流れを構成している。

0人称研究としての医学

 医学は、この38億歳の人間の生命を研究する。一人のユニークな人は、上記のように奇跡的に存在している。しかしそれ以前に、生きているということ自体が不思議なのである。私たちは、気がついたらこのいのちを生きていた。自分ではその構造や機能を知らぬままに、いのちを与えられている。もちろん、このいのちに閉じ込められていると感じる人もいるかもしれない。生物としてのこの生命のほかに私の存在(例えば来世のいのち)があるのかは、人間の永遠のテーマであろう。しかしさしあたって、なぜどのようにこのいのちが生かされているのか、そしてどのように生きていくべきなのか、が人生最大の問いであろう。

 医学は、この生きている不思議と向き合っている。人間の生命の構造・機能・変化について私たちがこの約150年間に得た知識は膨大なものであるが、しかし同時にほんの僅かでもある。わからないことの大海の中の分かっているひと雫。今後とも人類が惜しみなく時間や資金や労力を注いで解明するべき領域である。研究を進め、より深い人間理解を得て行きたい。ただし、医学の眼差しは冷徹で客観的である。そして、1人称以前の人間存在、すなわち〈0人称〉に向けられている。その視点は合理的で客観的である。医学を中心にした医療という営みは、医学の知見が少しでも効果的に実現できるように治療の基盤を整えるための多職種からなるシステムである。

 そこで大切になるのが、0人称の生命を生き、生活を営んでいる人間一人一人のいのちの味わい(クオリア:1人称)である。これは本来の医学の領域(精神医学を除く)ではない。医師は0人称を扱う専門職であり、1人称と向き合う訓練は受けていない。むしろ、看護職、福祉職(医療ソーシャルワーカーなど)、心理職がそのための訓練を受けてきた専
門家である。臨床スピリチュアルケアもこのような多職種チームのメンバーである。

 以前、ある医学者に、「医学は生産的ではない」という言葉をもらったことがある。「人間の価値は社会や大切な人との関わりの中でどのように生きるのかで決まる。医療はその前提を整えるだけであって、人間が生きる意味自体には補助的な意味しか持たない。」との意である。高名な医学者だから口にすることのできる謙虚な言葉だと心に刻んでいる。では私たちは、この奇跡的な存在として、叡智と膨大な資源とによって常に研究されそのウェルビーイングが追求されるいのちとして、どう生きるのか?

1人称(私)の構造

 1人称(すなわち一人一人の内面世界)は複雑である。その客観的理解(3人称として)を求める人間科学と言われる諸学問がある。観察したり、測定したり、質問紙を用いたり、分析したりする。それらの展開は歓迎すべきであるが、複雑な内面の世界を総合的に把握することはできない。1人称世界にアプローチするための大切な方法は、傾聴であり対話
である。

 作家の平野啓一郎は「分人dividuals」という考え方を提示している。固まった個人individualとして人を理解するのではなく、一人の人の中に多くの分人がいる。それが互いに対話したり調和や緊張を繰り返す生々しい1人称に眼差しを向ける。Hubert Hermansは対話的自己理論 Dialogical Self Theory として、分人の視点を体系化している。分人をI-positions という概念で捉え、理論を構築している。その際、ポリフォニーpolyphony という音楽用語がキーとなる

 全ての声部が同じメロディーを奏でるモノフォニーmonophony や一つのメロディーを中心に他の声部が和音を重ねてゆくhomophonyに対し、それぞれの声部が独自のメロディーを奏でつつ、それらが重なり合って一つの豊かな音楽を構成するのがポリフォニーである。一人の中の I-positions(もしくは分人たちdividuals)がどのような関係性を構築してゆくか、メロディーの重なり合いとしての私という楽曲がどのような音色を生み出すのか、というスリリングなダイナミズムがある。しかし、このメロディーの交錯こそが、我々の苦悩の実態なのかもしれない。さまざまな経験がそれに応じた内面的な思いや利害(I-positions)を形作っている。そもそもI-positionとして私の中に取り込まれていない出来事は、経験されていないのと同じである。

 所属する組織での思い、人間関係上の思い、親として・子として・兄弟姉妹としての思い、趣味や関心ごとに関する思い、経済的な利害、大切にしている視点や譲れない意見などがある。それらの一つ一つには、個人史的な背景があり、経験された事柄の記憶があり、その時に味わった感情がよみがえってくる。味わいが伴っている。これらの I-positions は、調和しているというより、常に不協和音を鳴らしているようにすら感じられる。米国の社会学者 Talcott Parsons は「病人役割 sick role」という言葉で、病人に期待される役割があると論じた。現代ではさまざまな批判をされ修正を求められる考え方ではある。例えば、病人が通常通りの能力を発揮しなくても寛容に見られたり、通常の義務を免除されるような面と、できるだけ早く病気の状態から回復するよう期待される面とがある。このような眼差しが自分に向けられ、安堵する面もあればそれを良しとしない思いも湧き上がってくるであろう。他者に向けて「私」と1人称単数で語るが、意識できるレベルでも、その中は複雑である。I-positionの対話の複雑さが感じられる

 宗教的な価値観や世界観・死生観も現代人の内面世界にとっては I-positions の一つだと考えられる。心の中で大きな位置を占め、交響曲の主旋律のように他の音程を統合して豊かな響きを奏でる場合もある。近代以前の多くの文化では、このような圧倒的な宗教言説が主旋律として存在した。しかし、心の中の他の想いと不協和音を生じたり、調和しない思いを沈黙させてしまうような強権が発動されたこともある。反対に、現代の世俗化された社会では、思いをリードするような豊かで誠実な価値観は得難い。情報過多の社会状況は、一つ一つの I-positions の内容が断片的で曖昧なまま押し寄せ、対話や調和が不可能なほど混乱をきたしているとすら言える。

 20世紀初頭のフロイトやユングに代表される無意識の発見は、1人称の内部の構造理解をさらに複雑にする。自分で意識できていない欲動や情動の世界が1人称の背後に広がっている。同様に、身体性が意識にもたらす方向づけや制限も現代の人間理解には不可欠である。そもそも人間の感覚器や認識能力は「人間として」条件づけられており、私たちはコウモリのような世界認識をすることはできない。さらに、この世界を生きている私の感覚をこえて「やってくる」ものを、郡司ペギオ幸夫は0.5人称として捉えようとする。また宗教的な世界観は、気づきや悟りのような、理性の求める因果関連を超えたエネルギーについても語る。「縁起」の考え方や「恩寵」論は、1人称自体が開いたものであることを主張していると思われる。対話的自己理論は、これら一人の人間の1人称を多面的かつダイナミックに捉える視点を与えてくれる。

傾聴というケア

 このような、構造化すら追いつかない三次元的、四次元的な1人称のダイナミズムを、人は「私は〜」と1人称単数で語る。人間には、このように多元的で複雑な内面のダイナミズムを、一連の言葉として秩序立てて語る「物語能力 narrative competency」がある。現代のケア論は、このような「物語的自己narrative self」と向き合うことを通して展開する。

 物語には即興性がある。傾聴する人に向かって、その時の自分を物語るという行為自体が、その都度自分の中に秩序をもたらす。心の中に広がる空間(三次元)と時間(四次元)を縦横無尽に行き交う主体は、時に選択的に、時に無自覚に、そこでの味わいを一連の言葉(一次元)に凝縮して語る。緩和ケア病棟の患者さんがスピリチュアルケアの実践者であるチャプレンに何気ない思い出を語る時、そこには選ばれたテーマがあり、語りに込められた色合いがあり、今ここでそのことをチャプレンに語るという行為が意味するその患者さんの心の方向性がある。今チャプレンの前には、そのことをそのように語った方が生きている。スピリチュアルケアとは、ケア者が、具体的な顔立ちや雰囲気を持った人間として患者の語りを傾聴することによって、物語が生み出される場が立ち現れる出来事である。ケア者が、伺った物語を味わうユニークな聴き手として居続ける時、物語は展開する。前に進んだり後ろに戻ったり、広がったり縮まったり、止まったり。聴き手であるケア者が方向づけるのではなく、物語自体が独自のいのちを持ち成長し、患者さんの心を導いてゆく。聴き手はその証人である。

まとめ:吸うスピリチュアリティと吐くスピリチュアリティ

  個が物語をとおして1人称を表現し、他者との関係を築き、社会的存在になってゆく方向性が極めて重要である。そのプロセスを「吸うスピリチュアリティspirituality inhale」と捉えている。スピリチュアルケアの一つの目標は、傾聴をとおしてその人がその人自身になってゆくことの証人になることである。物語は、生命の流れの中に誕生したユニークな0人称の個を1人称として立ち上がらせる力を持っている。スピリチュアルケアは、そのような一人の人間の存在の証人となり祝福(celebrate)する。これに対して科学は0人称の存在を冷徹に分析(cerebrate)する。ケアにとって、両者が両輪となって協力してゆくことが不可欠である。

  緩和ケア病棟での私自身の経験や、さまざまな臨床現場で働くスピリチュアルケアの仲間の経験は、しかし、この「吸うスピリチュアリティspirituality inhale」だけで人間を語ることは不十分であると教えてくれる。人間は物語能力を発揮し自己を確立する素晴らしい能力を得た生命である。人間のいのちの終焉は、その能力の喪失と捉えることもできる。しかしそのような否定的な表現ではなく、そこに存在の深い意味を見出し「吐くスピリチュアリティspirituality exhale」と捉えることが重要である。個であることを手放してゆく大切なプロセスがそこにある。例えば終末期の方、認知症や重度の精神疾患を患う方、知的や発達上の障がいを負った人、さらには言語以前の乳幼児。これらの方々のスピリチュアリティとの向き合いである。0人称というあり方、またそれに向かう人間のあり方と積極的に向き合う、新しいスピリチュアルケアが求められている。この方向性の研究・実践はまだ始まったばかりである。

◆プロフィール◆

伊藤 高章(いとう たかあき)

 国際基督教大学教養学部卒業、School of Oriental and African Studies,University of London; Oriental Institute, Oxford University留学を経て、国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程単位取得退学、TheChurch Divinity School of the Pacific(Berkeley CA)修了。桃山学院大学社会学部社会福祉学科教授、Supervisor in Residence, CPE Program, Stanford Medical Center、上智大学大学院実践宗教学研究科教授を歴任。現在、立正佼成会附属佼成病院チャプレン、上智大学グリーフケア研究所客員所員、日本スピリチュアルケア学会理事。

  著作:“ABC conceptual model of effective multidisciplinary cancer care”(Naoto T. Ueno と共著)Nature Reviews Clinical Oncology. 7, 544-547(2010)、Encounter in Pastoral Care and Spiritual Healing: Towards an Integrative and Intercultural Approach , Lit Verlag,(Daniel Louw, Takaaki David Ito, Ulrike Elsdorfer 編 2012)、『講座スピリチュアル学 第1巻 スピリチュアルケア(地球人選書)』ビイングネットプレス(鎌田東二 編 2014)、Spirituality as a Way―The Wisdom of Japan 京都大学出版会(樫尾直樹、Carl Becker 編 2021)など。

(『CANDANA』292号より)

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