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「明日への提言」

青少年健全育成に対する一考察~ダイニングキッチン(リビング)での教育~

川越淑江(教育評論家)

一 家族のものの暖かい心をはぐくむ場所

 人間がそこで生まれ、人間として育つところが家庭である。その家庭も今と昔では、ずいぶんと変化し、家族構成も複合家族から核家族に代わり、それに伴って家庭における教育も違ってきている。「家があっても家庭がない」といわれるまでになってきた。しかしいくら家族の構造や生活形態が変わっても、変わってならないのが、家庭の心であり、我が家の味だと思う。

 ともしび近くきい縫う母は 春の遊びの楽しさかたる 居並ぶ子どもは 指を折りつつ 日数数えて 喜びいさむ いろり火はとろとろ 外はふぶき

 という小学校唱歌がある。ここに出てくる「いろり」は殆ど見られなくなり、また、矩健は、茶の間に生活のなつかしい匂いを残しているが、矩健は家族の者が集い、冷えた身体を温めるばかりでなく、心も温めることが出来る場所である。

 生活構造の近代化により、家の構造も和式から洋式化され、「いろり」はダイニングキッチンヘと様変わりした。今ではダイニングキッチンはリビング(居間)を兼用する家庭が多くなったが、構造は変わってもそこに流れる家庭での味は変わらず持ち続けたいものである。家族の者にとってそこは大切な城であり、生活の砦であり、子どもを育てる場合でも、ダイニングは、重要な役割を果たすと思う。心の美しさ、やさしさは、理論では教えることは出来ない。毎日触れ合う心と心の響き合いのなかで育てられる。

二 ダイニングキッチンで教えねばならないこと

(1) 善悪良否の判断を身につけさせる

 幼児期においては何が善であり、何が悪であるかわからない時代であるから、善悪良否ダイニングキッチンで教えねばならないことの判断を身につけさせるには、親の姿勢が重要な役割をはたす。幼児期が他律の時代といわれるのはこのためである。親の価値観が子どもの行動を決定付けるといっても過言ではない。

 例えば、最近、子どもの能力を伸ばすために、子どもの行動を規制しないで、何でもやりたいことをやらせるという母親もいて、所かまわず落書きをしている家庭がある。この家庭では落書きではなく子どもの能力を伸ばすために、自由に書かせているだけのことであり、他の母親は、「お絵かきするのは、ここに画いてね」と画いてよいものや場所を示してそれを守らせるようにしつけている。

 この子ども達が幼稚園に入ると全く異なった行動をする。前者は平気で幼稚園のなかの床、机、戸など手当たり次第に落書きをするが、後者の子どもは、「そこに画いては駄目よ」と泣きながら前の子どもの行動を止めさせようとする。前の子は自分のしていることが悪い行動だとは思わないので、画き続けるという行動をとるのである。

 しつけの目安の一つは、人に迷惑をかけなことなので、常識的に考えて、どこにでも絵を書かせるのは考慮の余地があると思う。

 小学生に入ると、自分で善悪良否の判断が出来るように成長する。これを自立の時代という。善悪良否の判断を身につけさせるためには、自主性、耐性、社会性が育てられなければならない。これが育てられていないと、「これは悪い」と解っていても、人のものを盗ったり、責任を転嫁したり、自分の行動を律することの出来ない無責任な自己統制能力の欠如した子どもに育ってしまう。

(2)ものの生命を大切にすること

 ものの生命を大切にするということは、非常に抽象的で難しいことなので、これらのことを教える場合でも日常生活の中で具体的な事象を通して教えなければ、子どもは理解することが出来ない。例えば食事の時、残さないとか、一粒の米、一滴の水でも大切にし、野菜の一片でも捨てないで、スープを取ってから捨てるようにし、また昆布や椎茸でダシをとったあとは細かく刻んで佃煮や味噌漬けなどにして生命のあるものをよりよく生かすことを教えるのも、ダイニングキッチンならではの教育である。人の生命はもちろんのこと、全てのものの生命を大切にするように子どもの心を高めるのも、両親と子どものリビングでの触れ合いだと思う。毎日のように届けられる広告やチラシなども裏を利用して、子どものお絵かき用にしたり、適当にカットしてメモにして再利用することも生活の智恵であり、家事をつかさどるものの役目でもあると思う。

(3)日常生活のルールを守らせること

 我々の生活が快適に営まれるためには、種々のルールがあり、決められたルールを守ることにより、社会がよりよく運営されていく。子ども達は家庭の中で、このルールを教わり、それを守ることを知り、日常生活をする上での態度を養わないと、学校や社会に出ても、それぞれの規則が沢山あるので、自分の置かれている位置づけの中で適応することが出来ないで、勝手気ままなわがままを通し社会的野生児といわれる不幸な子どもになる恐れがある。

 幼児は何も解らないので基本的な生活習慣を身につけさせることが第一であり、幼児は目下練習中なので根気良く、繰り返し訓練させることが大切である。子どもを教育するのは、何にも勝る最高の生産活動であると思う。しかし過保護に育てられた子どもは、この訓練が出来ていないので、幼稚園や学校の決まりを守ることが耐えられず、家庭に逃避する子もいる。ルールを守ることは人間らしい快適な生活をする大切な条件である。ルールを守らせる場合、特に親の言行一致の態度が鍵を握ることになる。

 特に注意しなければならないことは、子どもの勉強するという言葉に惑わされて、決めたルールを簡単に破らせてしまう親が多いということである。「今日はまだ片付けが終わってないのね」というと、「だって宿題があるから」とか「これから勉強するの」などといわれると、親は何もいえなくなり、親の弱みを握ってしまい、要領を覚えて部屋で遊んでしまうこともあるので、心したい問題である。

(4)人に迷惑をかけないことを徹底して教えること

 人に迷惑をかけないことは、適応性を育てる上での基本的な目安となるものである。幼児期においては何が迷惑なのかわからないので(本能我)、親の価値観が子どもの行動の基準となる。

 幼児期においては、快苦の法則を用いて、過度もの感情の快、不快に訴えて行動を規制し、出来た時は心から喜んでやることにより、その行動が身についていく。またこの時期の汎心論(全てのものに心がある)を活用して、しつけるのも効果的である。例えば、コップにミルクを入れて立ち飲みしている場合、「こぼれるから座りなさい」といわず、「ミルクさんがぶるぶる揺れて、怖いって云ってるよ」という場合である。この時期の効果的な教育的方法である。

 小学生になると、善悪良否の判断がわかるようになるので、人に迷惑をかけないように徹底して教育することが重要である。我が家も、男子二人を育てたが、しつけについては心して育てた。

 子ども達が高校生になった時、教育の効果が上がった。二人の息子達は未成年なので、事故を起すと親に迷惑をかけることになるので、成人して自分で責任の取れるまでバイクに乗らなかった。(免許は十六歳で取っていた。)こんなところで教育の効果が現れるとは、想像もつかなかった。

 教育というのは、一朝一夕にはその効果は現れるものではなく、人に迷惑をかけないということを繰り返し、繰り返し、実践させていくことが最も重要なことであると思う。

(5)自己統制能力を培う

 戦後六十五年が経過し、高度経済成長は日本を物質的に豊かな国にした。その中で子ども達は、何不自由なく育てられ、欲しいものは何でも与えられるという生活をし、小学生くらいになって高価な物を買うようになって、はじめて我慢させられるという生活経験を持つようになるが、そのときはすでに欲求不満に耐える心が育っていないので、欲しいと思うと人のものでも悪いとわかっていても、盗んだり万引きする子どもが多くなっているのが現実である。

 ある時、小学生が五人で万引きをして見つかり、親たちは学校に呼び出された。その中の二人の親達は、「うちの子に限って万引きなんてしません。家は経済的にも恵まれているし、第一子どもは勉強が出来ます。万引きするはずがありませ・ん」といい、校長先生は、「残念ですが、お宅のお子様も仲間です」というと、「誰が仲間ですか」と聞き返した。その子どもの名前を知って、「あの子は家も貧しいし、勉強も出来ないのであの子ども達がやったんです。うちの子はきっと側にいただけです。良く調べもしないで親まで呼び出さないで下さい」と悪態をついて帰っていった。もちろん子ども達も自分が悪いことをしたという反省など少しもなかった。

 一人の父親は、責任感のある人で、子どもが万引きしたものを持って子どもを連れて謝りに出かけた。一軒目では「わざわざ来てくれたんですか、たいしたことないのに」といわれ、二軒目も同じような対応だった。三軒目に行ったとき、本屋のご主人に父親がものすごく怒られるのをみて、子どもは、「お父さんは何も悪いことはしていない。盗ったのは僕なのに怒られている。僕は悪いことをした」と、はじめて良心にめざめた。その子は二度と悪いことはしなかった。

 最初の二人は何回も事件を起し、中学二年で少年院に入る子どもになってしまった。親のゆがんだ愛が、子どもの人生を踏みはずさせてしまった、一考を要する事件である。

 「豊かさから来た心の貧しさ」で、我慢する心が育てられていないで来た子ども達である。今日のように豊かな時代には、我慢を育てることは難しいことであるが、我慢を育てるのは、「時を稼ぐ」という方法が最も可能である。

(6)自分の出来ることで、他者へ奉仕する心を養う

 人間は生きて行くためには、あらゆる物の恩恵を受けているにもかかわらず、人間は人間以外の他のものへは殆んど貢献していないので、人間同士だけでもお互いに助け合いたいものである。

 人間の子どもは生まれながらにして他の人に尽くしたいという心を本能として身につけている。幼児は、親が何かしていると、すぐに手を出すのはそのためである。親はその真理を知らないので、他の人のために役に立ちたいという心の芽を、「邪魔しないで」という言葉で、人間が本来持っている大切な有能性の能力を摘んでしまうことになるので、心したい点である。この心が育てられていると高学年になる頃には愛他の精神が現れるので、その時を生かして喜んで他に人に奉仕する心を育てることが教育上最も大切である。


◆プロフィール◆

川越淑江(かわごえ・よしえ)       (1932年生)

 長野県に生まれる。1955年、明治大学法学部卒業。1967年、東京家庭教育研究所・小林謙策初代所長に師事し、家庭教育の講師として活動。1977年、リクルート・人事教育事業部トレーナーを経、1988年、東京家庭教育研究所所長に就任(~1997年)。1991年、日本家庭教育学会副理事長。1998年、社団法人日本評論家協会会員となり、教育評論家として現在に至る。2004年、八洲学園大学客員教授(家庭教育課程)。著書:『親のための家庭教育講座』(1992年)、『より良き親子関係を求めて』(1994年)、『心の教育を考えるための20章』(1998年)、他。

(CANDANA244号より)

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