澤田 忠信(明星大学理工学部教授)
古代紫といわれても知らないという方がほとんどだろう。文字通り古代に、特に紀元前の地中海周辺地域で好まれた染料である。染織家から是非やりましょうといわれ、この程度のものは当然合成品が出回っていると考え、簡単に返事をしたことから始まった。実は市販品はなくやむなく合成をした。こんな事情で始まったが意外な染料でもあり、これに興味を持つ染織作家達ともであい、作品作りが始まった。 まずはこの染料の科学的な認識から始めたい。古代紫(貝紫、帝王紫、チリアンパープルとも言う、化学名は6,6′-ジブロモインジゴ)は1909年、P. Friedlanderにより12000粒のシリアツブリボラ(アクキ貝科で肉食性の貝)から1.4g の色素が取り出され化学的組成が明らかにされた。ここで図に古代紫と構造類似の藍の化学式を示す。
(図;左は古代紫、右は藍の化学構造式)
通常、化合物は構造が明らかになって、次に合成法の開発が進む。この時代は近代化学の勃興期でもあり1880年に藍(インジゴ)の合成がなされた。そしてその臭素置換体である6,6′-ジブロモインジゴが合成されていた。古代紫はこの藍の臭素置換体と同一構造であることが判り、化学構造と合成法が同時に明らかになった珍しい例でもある。その後、合理的な合成法が開発されていった。それをまねて合成を行ったが、手間と費用がかかりずいぶん高価なものになってしまった。構造から藍と同様な染色法で染まる筈と見当をつけ、染料を塩基性条件の基で還元し染色液の調製に成功。ところが還元状態となった染色液に光が当たると脱臭素化が起こり藍化することが判明。この脱臭素化に影響ある波長を確かめ、特定の波長をフィルターでカットすることで染色法の開発はできた。こんなに高価で藍化まで起きるようでは商品として販売できない、やっと市販されていない理由がわかった。
戦後になるが、この染料に関心が持たれ、一部の染織作家が貝から染料を取り出し、作品が創られている、しかし高価だ。現在、合成法の改良で天然の1/10程度にまでは下げた。しかし一般的な合成染料よりは、なおかなり高価、更に引き下げのための開発を続けているが、現在ここで足踏み状態。堅牢度では藍に劣ることはなく、商品化が可能であることを確かめた。一方、皮革へは建て染めが行われないといわれるところから、この技術の開発も進めている、これはほぼ目処がついた。染織作家との協力で作品もできつつある、日展や新工芸展、日本伝統工芸展での入選作も現れた。この古代紫について、もう少し説明を加えよう。
西洋では紫の赤と青の割合に応じて、等分のものをラテン語でviola(すみれ)、赤みの強いものを染料がとれる貝の名よりpurpura(プルプラ)、青みの強いものをその植物に由来してhyacinthus(ヒュアキントゥス)とに分けている。いわゆる貝紫は、軟体動物門腹足綱アクキガイ科の貝の鰓下腺(さいかせん=パープル腺)から分泌される粘液が、酸化し重合した状態で紫色に安定することを利用した染料である。古代フェニキア商人の積出港ティルスの町の名をとって、ツーロ紫(Tyrian purple)とも呼ばれている。この貝1個からとれる色素は極めて微量で、その染料は高価なものであったため、これで染められた絹布は希少品となり、古代ローマ時代には皇族の専用品として「皇帝紫」とも呼ばれていた。B.C.1000年以前の貝塚より染料を採取した貝が出土する一方、同様の習慣が同じアクキガイ科のレイシガイ類を用いてメキシコなどのインディオの中で、現在でも細々と続けられている。
このパープル腺から出る分泌液が触媒となる光の働きで古代紫染料に変化する。現在およそ300種類の紫染料の元となる貝が確認されている。地中海周辺地域では、おそらくB.C.15世紀には用いられていたと考えられている。合成に続き天然染料での染色も試みた。幸い愛知県佐久島でアカニシ貝を用いての体験教室がある。直接貝から無色のパープル腺を取り出し布にこすりつけ、その後に光を当て発色させる。染まったが臭い、貝の腐ったにおいがとれない、そして洗ってもなかなか落ちない、知ってはいたが相当強烈な臭いだ。こんなものを古代の人間は衣類に使用していたのかも問題になる。古代での記述例をあげてみよう。
『アガメムノーン』(B.C.5世紀);
「このように、御身のことばを聴かねばならぬ仕儀となっては、紫の(敷物の)上を踏み歩んで、…(略)…母上はいま、侍女たちと炉の傍にお座りなさって、貝紫染めの糸を、糸巻きへと繰りとる最中……」(アイスキュロス著/久保正彰訳、岩波書店)
博捜した原典の引用で綴った、『シーザーの晩餐―西洋古代飲食綺譚』「カエサルとクレオパトラの宴会」;
「たいていの布地はテュロスの紫紅染料に漬けられ、幾度も染料を吸わせて染め上げた物であった。…(略)…クレオパトラがカエサルの為に考えた。ナイルを遡り上エジプトまでの船旅をした。…(略)…この時の船は巨大で豪華、そしてその主帆は紫に染められていた。…(略)…その後のポンペイウス軍との戦いではムンダで大勝利、凱旋行進でカエサルは紫のマントを翻しながら大歓声の中を行進した。」(塚田孝雄著、時事通信社)
高価であってもポピュラーであったことが伺われる。
『驚異の古代オリンピック』;
「審判は競技会の10ヶ月前に選任された時から…(略)…深い紫色のローブを着てエリスの領内を自由に旅することを許される。…(略)…カオス(混沌)という言葉が古代ギリシアから生まれたのも、不思議ではない。最低限の衛生管理と設備さえなかったオリンピックの競技会は、古代のウッドストックだった。五日間にわたって繰り広げられる競技会は…(略)…、会場の環境は悪くなるばかりだった。臨時のゴミ箱は、いけにえとして捧げられた動物の骨などの生ゴミであふれ、異臭を放っていた。不衛生なため発熱や下痢を訴える人が続出し、必死に殺虫剤をまいてもむだだった。…(略)…オリンピック観戦の不快さは広く知れわたり、ある主人は言いつけを守らなかった奴隷に対して、オリンピックへ観戦に行かせるぞと脅したという。」(トニー・ペロテット著/矢羽野薫訳、河出書房新社)
当時の人々が臭いをどの程度まで許容するのか興味を持った部分になる。
この染料は『聖書』の中にも登場する。
「マルコによる福音書」15章16節-18節;
「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。」(新共同訳、日本聖書協会)
これは「イエスに紫の服を着せ」、権威の象徴である紫の衣をつけているのに力の無いことを嘲笑した場面である。処刑の時には紫の衣は剥がされている、ローマ兵も現金なものだ。クリスチャングループにこの話をし、紫に染めたハンカチをプレゼントしたところえらく喜ばれた。
『プリニウスの博物誌』、これは古代ローマ時代の百科事典といってよく、この時代の知識が知られる。第9巻の「水棲動物の性質」の中に〈ムラサキ貝〉という項目があり、貝の種類、採取法、染色まで述べている。その中に人尿に関する記述もある、また糖類を使っている。この染料を還元してから染色すれば臭いはずっと軽減する。糖類には還元力があるそして塩基性の方がより還元力を発揮しやすい。となると人尿で塩基性にして還元したと考えると合点がゆく。
話はとぶが、B.C.331年にアレクサンダーがスーサを降伏させ、ここでペルシャ最大級の宝物庫で、蜂蜜漬けの紫の染料を大量に得ている(『プルタークの英雄伝』國民文庫刊行會、訳者不明)。蜂蜜はそのままの濃度なら浸透圧の関係で腐敗防止剤になり、薄めれば還元力を示す。これらからこの時代すでに還元して紫に染めたと考えられる。古い時代でも、すでに臭いの除去を行った染色法が用いられていたであろう。
この『博物誌』には貝の採り方も載っている。「半殺しのトリ貝を箱に入れ海中につるす、するとアクキ貝が食いつきにくる。しかしトリ貝に挟まれ捕まる、これを引き上げる」とある。捕食者でありながら逆に捕まるようなドジな貝はいないだろう。しかし餌を箱に入れての採取ならあり得る。
現在もっとも使い易いのは大型のアカニシ貝だ。サザエと同じ大きさの貝で他より大きい分だけ採取数を減らし、貝を割る作業も減らせる、そしてこの貝は河口付近でよく採れる。とすると『博物誌』にある「染料に最適なものは溶解ムラサキ貝、すなわちいろいろな泥をくうやつ」――これを泥の中にいる貝と解釈すると合致する。エジプトにはナイルという巨大河川があり河口で大量のアカニシ貝を採取した可能性が大きい。クレオパトラが船の帆を染めるほどの染料を手に入れたのも頷ける。
この『博物誌』には、茜(赤)その他の染料になる植物の説明もある。ただし薬効としての記載の方が詳しいのだが。最も一般的で世界中で広く行われてきた草木染めは黄土色から茶褐色が主になる。これらを使用できたとなると、この時代のローマでは染料の組み合わせで殆どの色を染める事ができたと考えられる。相当高価になったであろう。
日本についても述べておこう。吉野ヶ里遺跡から貝による紫染めをした絹布片が発掘され話題となった。アクキ貝科の貝は食用になる、そして内蔵汁が手につけばそのうち紫になり落ちにくい、染料としての利用は簡単に気づく筈だ。603年に冠位十二階が定められ最高位は紫色。この時代にはムラサキ草による染色が行われるようになり、貝による染色が忘れさられたと考えている。ただし、三重県志摩の海女の中で伝わるが、磯手拭や襦袢などに、星形の印(セーマン)と格子状の印(ドーマン)を古代紫で描き、海での安全を祈願する習慣がある。これは陰陽師安倍晴明と蘆屋道満に由来するという。とすると平安時代から続いていることになる。
現在、古代紫の親類筋に当たる藍染めを安全で安価に実施する方法にも取り組み小中学校での理科実験を開発している。プロの染織家が使うものは高価すぎるためだ。顧問を務めている化学研究部の学生達にかなりの部分で研究開発を任せている。もっとも簡潔な絞り染めの学校実験化に始まり、抜染やバテック、さらには筒書き染めまで安全で安価に実施する方法を開発した。こうした成果を基に、子供達を呼んであるいは出前方式での藍染め教室を行っている。子供達が伝統文化に興味を持ってくれればとの願いもあってのものだ。一昨年には化学研究部の部員達がタイのスラムに出かけ藍染め教室を行ってきた。先方にも喜ばれ感謝状を授与してくれた。
いにしえを探ると思わぬ事象や知恵にぶつかることがある、これも意外におもしろい。そんな経緯の中で現在の色彩文化がある。色鮮やかな衣服は当たり前となったが、染料も歴史的には多くの変遷があった。色彩の利用は我々を豊かにしてくれる文化である、生活の中で意識して頂けるなら大いに喜びとするものである。
◆プロフィール◆
澤田 忠信(さわだ・ただのぶ) (1944年生)
東京都調布市の生まれ。タイのスラムに教育里子がおりときどき面会に出かける(実子ではない)。明星大学理工学部化学科卒業、同大学理工学研究科化学専攻修了。同大学専任講師、助教授を経て、現在、教授。理学博士。
専門:いわゆる亀の子として知られるベンゼン環に代表される多環芳香族化合物の合成法の開発ならびにそれらの物性測定を行ってきた。蛍光寿命特性を利用することでの超微量分析法(10-9mol/mol)なども見いだした。最近は忘れられた染料、古代紫に特化して合成法の開発や染料特性の確認を行っている。またこの染料の類縁種である藍を用い、小中学生にも安全で安価を標榜した理科実験の開発にも取り組んでいる。
著書:『危険から身を守る』共著、明星大学出版部、2002年
『環境教育と心理プロセス-知識から行動へのいざない-』共著、山海堂、2005年
(CANDANA257号より)