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「明日への提言」

無分別智の現代的解釈

森 政弘(東京工業大学名誉教授)

1.問題の所在

ここ数十年間、人口、食料、機械と組織による人間疎外、環境汚染、原子力とエネルギー、資源枯渇……など、世界的な大問題が続出し、その上それらは互いに関連し、幾重にも矛盾した深刻さを呈している。もちろんこれに対して諸組織が取り組んではおられるが、場当り的であったり、確とした哲学的根拠に欠けるものがほとんどである。

筆者はこの状況を救済する指導原理は仏教哲学に限ると熟慮し、昨年夏に佼成出版社より『仏教新論』(2013)を上梓させて頂いた(1)

その神髄は、人類が「自然(じねん)」の態度を取り戻すところにあると集約できる。これなき限り地球に救いはない。

それには、仏教哲学の大本であり根本原理である諸法実相を体得する必要があるのだが、実相は非常に深遠であり、このことが仏教の広汎な応用を妨げてきたと思われる。

当然その解説は、僧侶や仏教学者によって行われてきてはいるが、引用例があまりにも昔のものや、原始仏教の探求など広義の仏教史の方向のものが多く、科学が急激に進歩し、社会組織が複雑化した現代に対して忠告を与え、解決へと導く力は弱い。

一方、科学者(社会学者・技術者も含め)の中の心ある人々は、仏教に救済の鍵を求めて、巷の書店で解説本を手にしたりされるが、上記の理由で、どれもがピッタリとした答えを与えてはくれないのが現状である。書店ではとくに、般若心経の解説本が目立つが、ほとんどが上記要求には答えられていない。

2.解説書は身近にある

ところが、立正佼成会関係の書物にはそれに一番ふさわしいものがある。それは(開祖)庭野日敬著『新釈法華三部経』全十巻のうちの第1巻「無量義経」である(2)。とくにその説法品第二の中の下記の件くだりは、仏教の核心で(これはまた広く流布している般若心経の内容でもあるが)、「ここは無量義経の中で最も大切なところですから、徹底的に解説することにしましょう」と著者日敬師は述べておられるくらいであって、その解説は40頁以上にも及んでいる。すなわち、

「……無量義(むりょうぎ)を修学(しゅがく)することを得えんと欲(ほっせ)ば、応当(まさ)に一切諸法(いっさいしょほう)は自(おのずか)ら本(ほん)・来(らい)・今(こん)、性相空寂(しょうそうくうじゃく)にして無大(むだい)・無小(むしょう)・無生(むしょう)・無滅(むめつ)・非住(ひじゅう)・非動(ひどう)・不進(ふしん)・不退(ふたい)、猶(な)お虚空(こくう)の如(ごと)く二法(ほう)あることなしと観察(かんさつ)すべし。……」

この部分の解説を拝読されれば、上記1で述べた要求はかなり満たされるとは考えられる。しかしなお、これでさえも50年昔の1964年の出版であるから、さらに新スタイルをと、拙著[2013]では情報化時代の今日的なコンピューター比喩を用いて説かせて頂いた。その要点を以下に述べたい。

3.万象は陰・陽の合一

「陰・陽合一」という、この宇宙の普遍的な仕組の説明から入りたい。まずはその身近な2、3の例を挙げよう。

われわれは「刃物」という言葉を耳にしたとき、思わず「それは切る物だ」というイメージを抱く。しかし、よくよく考えると、それは早合点なのである。なぜか。たとえばオルファというナイフが普及しているが、あの鋭く良く切れる刃だけで物を切ることが出来るだろうか。答は否である。実行してみれば確実に分かることだが、刃を直(じか)に握るわけにはゆかず、握れば手を切ってしまうからである。柄という切れない部分があってこそ、手で持って切ることが出来るのだ。

つまり「刃物とは切るための物だが、切れない部分が不可欠」なのである。この事実を「切れる」と「切れない」という正反対の作用が一つに融けあっている、と観るのである。簡潔に言えば「切と不切の合一」となる。ここで、切を陽と、不切を陰と見れば、陰・陽が合一してはじめて刃物というものが成立していることが分かろう。

他の例を挙げよう。今日電気なしには、われわれは1日たりとも生活出来ない。その電気には+(陽)と-(陰)がある。電流は電池の陽極から陰極へ向かって流れることは、学校の理科で習ったはずだ。電流とは陰・陽が融け合う現象なのである。

そして更に、電気は、それを通す導体だけ存在しても使うことは出来ないのだ。絶対に、電気を通さない絶縁体が不可欠である。さもなくばショートして大変危険なことになる。電気を通す(陽の)ための電線は、必ず電気を通さない(陰の)絶縁体で被覆してある。このように電気では二重に陰陽が合一している。

自動車も、走るハタラキ(陽)だけでは危くて、走れない。その反対の止めるハタラキ(陰)のブレーキが必須である。自動車でも陰・陽が合一している。

昼と夜も陰・陽である。自律神経にも陰・陽がある。覚醒時にはたらく交感神経が陽、睡眠時にはたらく副交感神経が陰だ。血管系でもそうだ。動脈が陽、静脈が陰である。

このようにいくらでも例を挙げることはできるが、注目したいのは、われわれの頭脳の作用に陰・陽があり、今日、学校教育を始め情報社会では、その陽のハタラキのみに重点が置かれ、社会が調和を失っているという事実である。つぎにこれについて論じたい。

4.陰の頭の重要性

仏教学に「識」という専門用語がある。我(が)の発生源である末那(まなしき)とか、深層心理の奥の院を成す阿羅耶(あらやしき)などは識の一種である。

その識のハタラキは物事を区別し、分けて知ることだという。たとえば、天から降ってくる水でも、雨と雪とは違うと言って区別し、さらに、それらは、みぞれとも異なり、露や霜ともまた違う、というふうに区別を推進するのが識である。このように識は「分別する」ことを特徴とし、知識の源となっている。

学校でも、事細かに分別し持っている知識が多い方が秀才とされている。NHK番組に多出するクイズでも、識が尊重されている。知っている方が価値が高い世界である。しかもその世界では、正解は一つに限られている。

筆者は、この識は頭の「陽の作用」だと観ている。いわゆる進歩発展というのはこの陽の世界のことだ。事実、進歩したおかげで、物事は細分化され複雑を極めてきた。たとえば、すべての商品について言えることだが、品種は増える一方である。病院の診療科の種類も細分化し増えてきた。テレビ局も増え、番組は見切れないほどの増大ぶりである。内容も出演者の語り口も、懸命に感情を煽り立て、喧噪の限りだ。IT世界はその最たるもので、パソコンは32ビットだったところへ64ビットのものが顔を出したかと思う間に、やれスマートフォンだ、iPad だと目まぐるしい。ハードディスクの容量は増大の一方ではないか。心の安まる暇がない。

ところでこのビット(bit)であるが、これはディジタルの情報の量を示す単位である。車を例に取ろう。いま仮に東名高速道路のような東西方向に延びた道路を走っている車を考える。東行きと西行きとの2つに分類した状態が1ビットだ(2=2)。それらの車を乗用車とトラックに区別して、(1)東行き乗用車、(2)東行きトラック、(3)西行き乗用車、(4)西行きトラックというふうに4分類した状態が2ビットである(2=4)。さらにそれらの色を問題にして分類を進めるとか、エンジンの排気量に着目して区別するとかと細分化してゆけば、3ビット、4ビット……と情報量は増してゆく。

今の時勢は、このような、識に基づいた頭の「陽の作用」にひどく偏っている。「陰の作用」を取り戻さなければ、大変なことになると、陰・陽合一の理から熟慮される。

5.無分別智

同じと観る知の究極

頭の「陰の作用」の最重要なものが、悟りのハタラキをもたらす「般若(はんにゃ)」である。識は分別知だが、般若は識とは逆の無分別智が基本になっている。ビットを徹底的に減らす作用だ。雨だ雪だみぞれだと、分別せずに、どうせH2Oだ、さらに水も岩もどのみち存在だと、まとめてしまう無分別作用である。

般若の無分別性は徹底している。究極に至るまでビットを減らす。その最後のビット減少は論理的な陽の頭では歯が立たない。それは「異なるものは同じだ」という絶対矛盾の壁を越える必要が出てくるからだ。

だが、その壁さえ乗り越えられれば、最後の0ビットの状態、すなわち2=1、宇宙中には一つのものしかないことが腑に落ちるようになる。そしてここが大切な点なのだが、一つ有るということは冷静に思索してみれば、それは部分ではなく無限に広がった無境界の「全体」なのだと納得できる。もしも無境界でなければ、それ以外のものがあることになり、0ビットではなくなってしまう。

それは一様で静寂なのである。濃淡があるとか、部分的に色彩がついているということはない。濃淡があると、境界(広義の)があることになるからである。同様の理由で、動きも音も全くなく静寂である。動きがあるとすれば時間的な一様性が破れてしまう。

無分別智がたどり着く究極は、空間的にも時間的にも一様なのである。(くわしくは、森[2013]第七章参照)

これで、2で述べた無量義経の重要部分、

「一切諸法(いっさいしょほう)は……、性相空寂(しょうそうくうじゃく)にして無大(むだい)・無小(むしょう)・無生(むしょう)・無滅(むめつ)・非住(ひじゅう)・非動(ひどう)・不進(ふしん)・不退(ふたい)、猶(な)お虚空(こくう)の如(ごと)く二法(ほう)あることなし」

がお分かり頂けるであろう。

仏教で、空とか無とか、真如とか法身の仏と言われているところは、このような側面を有している。このことを悟る智が般若である。

仏教のたいていの解説書では、般若は智慧とだけ説明されており、またそれを普通の知恵と区別して、常用漢字以外の漢字で智慧と表記されているが、このように頭のハタラキを陰・陽で観れば、分かりやすいのではなかろうか。涅槃寂静の寂静の意味は深い。喧噪の現代に、静けさを取り戻したいものである。

頭のハタラキにも陰陽合一が必要である。


文 献

(1)森 政弘『仏教新論』佼成出版社、2013年8月。

(2) 庭野日敬『新釈法華三部経1』佼成出版社、[初版1964年3月]改訂版1989年6月 とくにp.164以下を参照。


◆プロフィール◆

森 政弘(もり・まさひろ)        (1927年生)

三重県生れ名古屋市で育つ。旧制第八高等学校に入り、2年の時終戦。名古屋大学電気学科卒。東京大学助教授、同教授、東京工業大学教授を経て現在東京工業大学名誉教授。専攻は制御工学とロボット工学。工学博士。

1970年以来今日まで40年以上、仏教学の研鑽にも励み、科学技術と仏教哲学の融合に努め、その関係の著作も多い。最近のものとしては、入門者向け『親子のための仏教入門』(幻冬舎、2011年)、専攻者向け『仏教新論』(佼成出版社、2013年)がある。立正佼成会とのご縁も40年を越える。

我が国のロボット工学の立ち上げに尽し、「不気味の谷」現象の発見者として、世界から認められている。ロボットコンテストの創始者でもある。

(CANDANA259号より)

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