• HOME
  • 「明日への提言」

「明日への提言」  バックナンバー: 2009年

異文化理解への課題

井上 雅也(日本大学准教授)

韓国での経験

 ソウルオリンピックの少し前、韓国の「農村経済研究院」に1年間留学の機会を与えられた。帰国間近になって、お世話になった研究室の方々数人で送別会を開いてくれた時のこと、崔さんという30代半ばの男性が私にこう言った。「井上さん、私は自分の先祖を恥じている」と。

 はて、韓国の人たちは先祖を誇りにしていて、時には自慢するのがむしろ当たり前なのに、「恥じている」とはおかしなことを言うものだと思って、「どうしてですか?」と聞くと、「私の先祖は、豊臣秀吉が朝鮮を侵略した時、祖国を裏切って日本軍の道案内をしてしまった。私は恥じている」と言うのだ。

 思いもよらない言葉にびっくりした。いくら何でも400年も前のことで…!

 ところがそれだけでは終わらなかった。「井上さんの先祖はそのころ何をしていましたか?」返答のしょうがなかった。私が生まれる10年前の二二六事件でさえ、すでに“歴史”という感覚である。「日本では歴史を学校で習うが、韓国では家で学ぶ」とはこう言うことだった。異文化を肌で感じた一つの経験であった。

 ところで、よく「異文化の中に身を置くと日本人であることが自覚される」と言う。しかし“異文化”とは何か。「兄弟は他人の始まり」からすれば家族でさえ“異文化”の住人とも言える。ここでは、異文化を何となくイメージしている”外国”はもとより“隣人”の文化として捉え、私たちがそれと向き合う時に持つべき視点を探ってみたい。

続きを読む


仏教史に信心の跡を訪ねる

大隅 和雄(東京女子大学名誉教授)

宗教としての仏教の歴史を

 私は、大学では文学部国史学科に入り、大学院でも国史学専攻に在籍した。半世紀前の大学では、戦後歴史学とよばれる学風が盛んで、私の周りは、社会経済史を専攻する先輩・友人ばかりだったが、大学に入る前から、日本の中世の思想や文化に関心を持っていたので、日本史の中で、仏教史に関する研究書や論文を読むことが多かった。

 国史学科では、実証ということが基礎になるので、何かを論ずるためには、先ず史料を探し、集めた古文書を吟味しなければならない。日本仏教史の史料は、ほとんどが寺院所蔵の文書で、寺は宗派に分かれているために、仏教史研究は自然の成り行きで、宗派史の研究ということになる。中世の仏教を通して、日本人の思想や文化を考えたいと思っていた私は、一つの宗派を選んで、その歴史ばかりを考えることになじめなかった。

 日本の仏教は、当初、先進的な外来文化として受容されたので、漢訳仏典の解読、複雑な儀礼の習得が重視され、宗教としての仏教に対する関心は深まらなかった。留学僧は、唐代の寺院で講読されていた経論を持ち帰り、南都・北嶺の寺院では、次々に伝えられる仏典の講義が行われて、新しい学派が立てられた。その結果、仏教史は、教義史、学説史が中心になり、信心・信仰の在り方が問われることは少なかった。

 思想史、宗教史、文化史に関心を持ち、鎌倉時代の仏教について考えたいと思っていた私の周りでは、社会経済史の議論が活発だったが、史料から読み取ろうとする社会経済の情報は、単純な事実に関することがほとんどなのに比べて、思想や宗教に関する史料から読み取らなければならない事柄は、微妙な陰影を持っていることが多いので、社会経済史の友人から、思想史や宗教史の史料の解釈は、確定できないようなことに拘っていて、研究者の主観に左右され、学問的でないといわれることが多かった。

 日本仏教史の研究は、外来の学問・思想の受容と、寺院と宗派の歴史について多くのことを明らかにしてきたが、私は、日本の仏教が、宗教としてどんな在り方をしてきたかについて、問うべきことが、手をつけられないまま、残されていると思った。鎌倉時代に現われた宗教的な達人たちについて、思想・教義の系譜を詮索すること以外に、その宗教体験について考えることが必要なのに、仏教史では、それがまともに取り上げられていない。仏教史は、教義史と、教団の政治史だけではないかと思わざるを得なかった。

 宗教ということばは、幕末、明治の初年に、西欧のレリジョンの翻訳語として受け入れられたことばで、それ以前は信心ということばが用いられていた。私は、日本仏教の中で、「信心」のありようを見極め、捉えることはできないかと考えるようになったが、歴史学の中でどうすればそれができるのか、学生の頃から考え続けて分からないままでいる。

続きを読む


地球環境簡題の対策に日本の経験と技術が活用されるために

町田 勝(環境カウンセラー)

世界の平和を脅かす地球環境の悪化

 現在、世界の平和を脅かす4つの重大な問題が指摘されている。その4つとは、①核戦争再発の危慎、②民族・宗教間対鍵立の激化、③エイズや新型インフルエンザ等の悪性感染性疾病の急増、④地球環境の急激な悪化と対策の遅れである。中でも地球環境の急激な悪化は、その影響が気候変動として実際に現れており、各国が危機感を抱いている。

 このような危機感の中で2007年のノーベル平和賞を、ゴア元アメリカ副大統領と気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が受賞している。その受賞理由は、人為的に起こる気候変動についての知識を広め、その変動を打ち消すために必要な処置の基盤を築く努力があったためである。

 気候変動の対策では1997年に京都で開催された気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)で、日本が議長国となり京都議定書が採択された。その議定書で先進各国の温室効果ガスの排出についての数値目標が決定され、途中離脱したアメリカを除き各国がその目標達成に向けて取り組んでいる。また、2008年7月に北海道洞爺湖で開催された主要国首脳会議(G8)で、日本が議長国となりメインテーマの1つとして地球環境問題が取り上げられた。再び議長国となって地球環境問題の対策の舵取りをする機会が与えられたことに、廻りあわせの縁を強く感じたところである。

 その後、2008年9月にアメリカでおこったリーマン・ショックを発端として世界全体が不況となり、これまで経済発展に貢献してきた世界的な企業が、次々と倒産の危機に陥っている。この世界同時不況からの脱却のためにアメリカのオバマ新大統領は、グリーン・ニューデール政策を打ち出した。これは、今まで経済発展の阻害要因として軽視されていた地球環境問題の対策を経済復活の牽引役とする、考え方のベクトルを180度転換させた政策である。この地球環境問題の対策は、資源に乏しく過去に大気汚染等の深刻な公害問題を克服した経験がある日本において、最も得意とする分野である。

 そこで、気候変動等の地球環境問題の対策を、日本が中心となって進めるための後押しになると思われるので、有害排気ガスによる大気汚染を克服した経験、地球環境問題の対策に必要となる省エネ技術を紹介する。また、日本の経験と技術が地球環境問題の対・策に活用されるために、宗教者への期待について筆者の思いを述べる。

続きを読む


高齢社会における年齢についての一考察

嵯峨座晴夫(早稲田大学名誉教授)

高齢者とは

 先日、知り合いの新聞記者から「高齢者を65歳以上の人と定義するのはなぜですか、そしていつから誰がそのような年齢区分を設けたのですか」と聞かれた。当たりまえのことのように思っていたことを改めて面と向かって聞かれると、意外に答えられないことがある。さすがにジャーナリストの質問は鋭い。

 65歳を基準に用いることについては、以前、拙著(『人口高齢化と高齢者』)の中で考察したことがある。その要点は以下のとおりである。

 高齢者を決めるのに年齢(暦年齢)を基準にとるのは、もともと便宜的なものである。日本では、以前から65歳以上の人を高齢者とすることが一般的であったが、発展途上国のような若い人口構造をもつ国の場合には65歳以上の人口はわずかな割合しか占めないので、60歳以上人口を用いることもある。現在、国連では人口高齢化の指標として全人口に占める60歳以上人口、あるいは80歳以上人口の割合を採用している。逆に、今日の日本のように著しく高齢化の進んだ国の場合には、65歳は若すぎるとして70歳以上、あるいは75歳以上にすべきだと主張する人も多い。

 75歳以上の人を人口学では、65歳以上の人口と区別する意味で以前から「後期高齢者」と呼んでいたが、この呼び方は後期高齢者医療制度がスタートしてから悪名高いものとなってしまった。なぜ、75歳以上の人を対象にした医療制度を別に作ったのかと問われて、舛添厚生労働大臣は「75歳を境にして病気になる人の割合が急に多くなる」ことを理由にあげていたことは記憶に新しい。

 高齢者とは、ライフサイクル上の高齢期に達した人と考えるなら、高齢期に関する議論もからんでくるので、高齢者の定義は簡単ではない。高齢期とは何かについてみる前に、冒頭に記したもう1つの質問について述べておく。

 いつ頃から、どこで「65歳以上」という年齢区分が使われるようになったのか。国連が1956年に刊行した書物 (The Aging of Population and Its Economic and Social Implications)は、1950年代の世界各国の人口の年齢構造を分析した最初のもので、そこでは65歳以上人口の割合を高齢化の指標として用いている。当時は、欧米先進諸国では、その割合は7%以上であった。ちなみに、日本は1950年49%、1955年5.3%と低い水準であった。しかし、国連の書物以前に65歳以上が基準として用いられていたかどうかは、今のところ確認できない。

 1920年(大正9年)から始まった日本の国勢調査をみると、各歳別のデータのほかに、高年齢の区分としては「60歳以上」があるのみで65歳以上は明示されていない。いずれにしても、人口構造を高齢化の視点から捉えるようになるのは、そう古い話ではなく1950年代からであり、65歳以上が基準にとられるのはその頃であったといえよう。

続きを読む


ページTOPへ

COPYRIGHT © Chuo Academic Research Institute ALL RIGHTS RESERVED.