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「明日への提言」

異文化布教から考える違いと理解

渡辺 雅子(明治学院大学名誉教授)

 

異文化布教に関する視点

 現在の私の研究テーマは日本の新宗教の異文化布教についてである。振り返るともう30年以上にわたって、このテーマに取り組んでいる。長年、フィールドにしたブラジルでは、 立正佼成会(以下、佼成会)、大本、金光教、天理教、霊友会、世界救世教、崇教真光、創価学会などの日系新宗教の調査研究をした。ブラジルという同じ土壌にさまざまな日系新宗教の種が蒔かれたが、各々の展開過程は異なっており、多くの非日系ブラジル人信者を獲得したものと日系人のエスニックチャーチ的な色彩が強いものがある。これは、ブラジルという同じ土壌に日系にルーツがある宗教の種を蒔いた時にその展開を規定するものは何かという主題のものであった。

 ついで同じ種を異なる土壌(国)に蒔いた時に、その展開を規定するものは何か、各国の文化に合わせてどのように変容していくのか、また、信仰の中核として変えてはならないことは何か、現地の人々はどのように日本の宗教を受容しているのかというテーマで取り組んでいる。その種として佼成会を選び、 これまで、南北アメリカではブラジル、アメリカ(ハワイ、オクラホマ、テキサス)、東アジアでは韓国、台湾、モンゴル、東南アジアではタイ、南アジアではバングラデシュ、スリランカ、インドで調査研究を行ってきた。 日本人・日系人から布教がはじまったのは、ブラジル、アメリカ、タイで、それ以外は100%現地人の信者である。海外に移住した日本人が中心となったものは、エスニックチャーチからの脱皮が課題になっている。

異文化布教にみる気づき

 異文化布教の研究は、自文化やあたりまえだと思っていたことについて、いろいろ気づきを与える。異文化に照らし合わせると、自分自身が立地する日本の文化や価値観の特殊 性や文化を超えて通じることは何かといったさまざまなことを考えさせられる。

 調査に行った時は、現地の文化について理解するために、「観察」と「聞き取り」を行う。佼成会の調査が主目的であっても、できるだけ現地の寺院や教会、その文化を目で見て知りたいと思う。そうすると人々がどのようなところに荘厳さを感じるのか、どのようなものを供え物にしているのか、聖なるものに接して、どのような行動をとっているのかについてヒントを得る。佼成会は日本にルーツのある宗教なので、現地の人々が佼成会の宝前(仏壇)を見た時に、はたして聖性を感じるのか、その国の文化に合わせたほうがよいのかということも考える。異文化布教においては、適応課題という文化的な異質性を薄め、現地の様式を採用するということはよくみられる。けれども異質だからといって受け入れられないということではなく、説明すれば理解可能なこともある。

 佼成会の本尊(仏像)は立像である。座像や涅槃像の多い仏教文化圏では、立像であることへの違和感があるので説明をしなくてはならない。読経供養の時にかける「おたすき」 についても、通常は美人コンテストや選挙の時以外はしないので抵抗がある。在家仏教徒であるので、おたすきをすれば正装になると説明する。一般的にはこれで通用するが、おたすきについては、モンゴルではそこに書いてある漢字(中国に対するは反発を反映)のために受け入れられない。また、導師・脇導師が着る黒の礼服については、一般的に黒という色が好まれない。

現地様式の採用

 佼成会の海外教会の宝前は、日本に準じているが、たとえば台湾の台南教会の場合、宝前の背景が赤色だ。赤は吉祥の色とされ、台湾では好まれる色である。また台北教会では人々の帰依を集めている観音信仰を取りこみ、観音の部屋がある。また、両教会とも台湾の仏教寺院にある光明燈を取り入れている。韓国では、伝統仏教で行われる花まつりの提灯を採用し、宝前の間の天井は提灯でおおわれている。そのほか伝統仏教で実践されていることを選択的に受容している。

 お盛物については、日本式の飯水茶に加え、韓国では伝統仏教でやるように真鍮の容器に入れて生米を供えている。モンゴルでは乳製品を供える。バングラデシュでは、仏像には煮炊きしたものをたくさん供える習慣があるので、それも採用している。アメリカやブラジルではコーヒーを供えたりする。

 日本の新宗教が海外で布教する時、その国の文化的要素を取り入れることは重要であろう。お盛物は現地の要素を取り入れ、極端な違和感がないようにしている。モンゴルは社会主義から自由主義に転換した1990年以降は宗教復興の状況にあるが、家庭の宝前にはダライ・ラマの写真や菩薩の絵が佼成会の本尊と並置されていた。バングラデシュでは、佼成会の本尊と、仏像や高僧の写真も並置されている。また、アメリカではメディテーションを取り入れている。現地の様式は比較的柔軟に採用しているが、それでは佼成会の教えの核にあるものについてはどうだろうか。

佼成会式先祖供養の理解の難しさ

 日本の佼成会では、入会する場合、原則として総戒名(現在は、本尊、総戒名、法号、宅地因縁がセットになっている額装本尊=教会勧請本尊)を自宅に安置するのが基本である。総戒名とは夫方(父方)、妻方(母方)の両家の先祖を象徴する礼拝対象で、法華経による双系の先祖供養は佼成会の信仰実践の基本であるとされる。

 異文化布教の点からみると、実は、佼成会の教えの根本にある先祖供養を理解させるのが難しい。たとえば、韓国と台湾は、ともに先祖祭祀を重要視し、実践している国である。しかし、韓国と台湾では、とりわけ佼成会式の先祖供養を受け入れることが難しいのである。現地の宗教文化との葛藤が見いだせる。韓国の場合、自宅には仏壇も位牌も仏像も置かない。儒教式の先祖祭祀は長男の家で行われ、祭壇を作って紙の位牌を書いて供養し、法事が終わった後でそれを燃やして片づける。自宅に先祖の霊を祀ると鬼神が入る、魔が入る、鬼神を呼び寄せて何か祟りがあったらどうするのかと恐れる。また、こうしたものを置くことは、ムダンという韓国のシャーマンの祭壇を思い出させ、霊を使って何かをしているように思われる。そこで韓国では、入会したあと総戒名を教会の戒名室で預かるという方策をとっている。自宅に祀ることは難しいが、総戒名を戒名室に安置するということは受け入れられているし、追善供養と総供養を戒名室で行うことはよく実践されている。女性にとっては、佼成会で実家の先祖を供養できることはうれしいことでもあるという。

 他方、台湾では仏壇もあり、位牌祭祀が行われているが、妻方(母方)を祀るということ自体が受け入れることが極めて難しい。先祖祭祀は韓国のように長男にということではなく、祖先とつながる男系子孫の全員に権利と義務が認められている。

 このように先祖祭祀が盛んな国で、佼成会式の先祖供養を受け入れることに困難がある。韓国では自宅に祀るということへの抵抗、台湾では妻方の先祖を夫方の先祖と一緒に祀ることはありえないのである。また、上座部仏教圏では、輪廻転生、生まれ変わりが信じられているので、前世は重要視されるが、先祖供養の習慣はない。バングラデシュではイスラム教国の中のマイノリティである仏教徒に佼成会の信仰が布教展開しているが、先祖供養を理解させるために、ルーツ図をつくって、空欄に祖父母までの名前を入れ込むとい うことをした。それは一時青年たちにブームになり、また、こうした作業をとおして亡くなった人とのつながりを感じたとのことである が、先祖供養を理解させるのに工夫がいった。 アメリカやブラジルでは先祖供養という考え方自体が新しいものである。先祖供養について英語ではAncestor appreciation(先祖への感謝)という訳語をつかっている。

 このように検討してくると、先祖供養(祭祀)は、普遍的というのではなく、日本の民俗宗教なのではないかと思われる。日本に仏教が定着したのも、先祖祭祀・先祖供養とむすびついてのものだった。先祖祭祀・先祖供養の文化がない国があり、それがある国でも、それぞれの国の文化による方式があり、かえって佼成会式先祖供養を受け入れにくいという様相が見いだせた。読経は好きという人も多いが、日本と同じように読経供養をしている姿を見て、先祖供養をしていると思うのは誤りで、読経の対象は先祖ではなく仏陀に対してであったりするのである。

韓国佼成会の調査研究

 韓国佼成会の調査研究をはじめて15年になるが、今年(2019年)3月に『韓国立正佼成会の布教と受容』(東信堂)という本をまとめた。そこでは佼成会の韓国での展開過程を縦糸に、それにかかわる人々のライフヒストリーを横糸として、それらが織りなす葛藤・奮闘・信仰受容のあり方を描き出したものである。他のアジア地域への佼成会の布教をみると、日本への好感が背後にあり、それが布教の追い風になっている。しかしながら、韓国の場合、日本の植民地支配に起因する反日感情の存在があり、それは韓国佼成会にも影響を与えている。しかし他方では、在日コリアンの存在があり、初期には彼らのさまざまなルートを通じて各地で布教が行われた。

 佼成会の韓国での展開は、1979年にソウルに布教拠点が設置されたことに始まる。日本人教会長の長期ビザ取得の上で困難があり、1986年に本部は韓国人による布教に舵を切った。日本人教会長が日本に引き揚げた後、日本生まれの元在日コリアンの母娘が中心になって試行錯誤しながら布教を展開した。韓国の場合、日本語と韓国語の両方に堪能な人材を得たことがメリットであった。両方の文化をつきあわせながら、文化的違和感を希釈し、さらに日本性の希釈(佼成会の脇祖である長沼妙佼の写真の着物を洋服に変更など、日本の植民地支配を思い起こさせるものへの対応など)、現地様式の採用、現地に適合的なやり方の工夫(前述した総戒名の戒名室安置など)をしていった。そして生活仏教、在家仏教として日々の実践に動機づけ、韓国人の思考様式、価値観、行動様式、気質をふまえ、四柱推命での鑑定を手掛かりとして用いながら、個人指導や法座をとおして自己変革に導いていった。

 この間、追い風もあった。1988年に新道場が建設されたことはメリットだった。そして日韓関係にかかわるものとしては、ソウルオリンピック翌年の1989年に海外旅行の完全自由化、1998年の日本の大衆文化輸入の解禁、2002年のワールドカップ日韓共同開催、2004年の「冬のソナタ」放映による日本での韓流ブーム、2006年からの日韓両国間での観光目的の短期滞在ビザの免除という日韓の交流を促す出来事があった。海外旅行の自由化により、これまでは日本の親族の招聘状がなければできなかった訪日が可能になり、日本の本部団参(団体参拝)が可能になった。訪日の折には日本の教会との交流が行われた。また日本の本部からの研修講師の派遣、日本の教会、支教区、教区単位での平和使節団の派遣など交流が増えていった。

 民間レベルでは日韓の人の往来も活発になり、大衆文化は相互に交流・浸透し、日韓の民衆レベルでの文化的交流や個人的な交流が増大している。しかし、その中で、政治問題としての日韓関係は揺れ戻しがある。

内集団と外集団・同調圧力と敵意

 日本における在日コリアンや韓国に対するヘイトスピーチ、韓国での反日感情など、日韓関係は緊張をはらんでいる。政治レベルでは、歴史教科書問題、首相や閣僚の靖国神社参拝問題、竹島問題、慰安婦問題、徴用工問題など繰り返し起こる反日感情を喚起する出来事がある。そして最近では徴用工問題をきっかけとして政治問題が経済問題にまで影響を及ぼし、日韓関係は緊張の度合いを増している。

 社会学の用語に「内集団と外集団」というものがある。「内集団」とは献身と愛情の対象になる「われわれ」としてとらえられる強い結びつきをもつ一群の人々で、他方、「外集団」とは結びつきの弱い、あるいは競争・闘争などの対立関係にある「彼ら」「よそもの」として捉えられる人々である。ある場合には内集団としての結束を固めるために、敵対する外集団をつくることがある。外に線をひき、内部を結束させようとするのである。特に内部の状況が不安定である場合、戦略的に外に敵をつくっていく傾向があるように思う。これは日本、韓国ともにあてはまるのではないか。

 現在、日本では同調への圧力がとりわけ顕著になっているように思われる。空気を読む、突出しないこと、出る杭は打たれるというのは、本来は地域移動の少ない、同質的な価値観を共有するムラ的な社会を前提にしている。しかし、今日のように社会移動もあり、価値観も多様化している状況の中で、なぜこのような閉塞した状況が作り出されるのだろうか。そして、なぜ敵意をもつ他者がつくられるのであろうか。

 個人を取り巻くさまざまな所属集団があり、また漠然とした社会というものがある。そこで「空気を読む」ことは可能なのか。そこでの同調は、内集団に所属しているということを示そうとしているのではないか。そうした空気は過同調をうみ、忖度を生み出すのである。こうして読む空気は客観的知識や判断に基づくものではなく、思考停止を生み出していく。また、実際、それは人々を息苦しくさせるものである。ヘイトスピーチもいじめの構造も、「われわれ」の線引きをするために、あえて外部に敵をつくっている。

 異文化布教の調査研究からみると、異文化では空気は読めない。また、読めると思ったら間違ってしまう。むしろ違いを正確に理解し、それを認め合うことが必要だ。異文化布教の研究をとおして、文化の違いや行動様式の違いは優劣ではなく、まさに違いであり、違いを理解していくこと、そしてお互いに理解する努力をすること、そのためにコミュニケーションをとることが重要だと思う。

 グローバル化が進む現代社会は、経済も一国の中では完結していない。また、国内をみても「内なる国際化」が起きている。先進諸国で移民問題が激化するなかで、日本社会は移民を受け入れる方向に舵をきった。しかしあくまでも労働者としてである。けれども来るのは人間であって、労働力ではない。ブラジルでの日系新宗教の調査をきっかけに、その後大きな潮流になった日系ブラジル人の日本へのデカセギの調査もしてきたが、日系人であっても日本人とは棲み分けや分離の状況にある。グローバル化がすすむ現代社会で、異なる文化的背景を持つ人との共存は不可欠の課題だ。内なる国際化はもう必然である。そこでは、理解し合うことが大切になる。多様性を認め合い共存する道をはかるために、 異文化布教からみえてきたものはヒントになるのではないだろうか。

◆プロフィール◆

渡辺 雅子(わたなべ まさこ)        (昭和25年生)

 東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、東京教育大学大学院修士課程修了、東京都立大学大学院博士課程単位取得満期退学。博士(文学)
 明治学院大学名誉教授。日本宗教学会常務理事。宗教法人審議会委員。(公財)国際宗教研究所顧問。
 専門は宗教社会学。新宗教研究。特に日本の新宗教の異文化布教について、その展開過程、現地化の課題、現地信者の信仰受容の諸相について、綿密な聞き取り調査によって接近している。
 著書(単著)に『ブラジル日系新宗教の展開』(東信堂、2001年)、『現代日本新宗教論』(御茶の水書房、2007年)、『満洲分村移民の昭和史』(彩流社、2011年)、『韓国立正佼成会の布教と受容』(東信堂、2019年)、単編著に『共同研究 出稼ぎ日系ブラジル人(上)(下)』(明石書店、1995年)ほか論文多数。

(『CANDANA』279号より)

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