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「明日への提言」

日本語音韻史研究と佼成図書館所蔵古文献

坂水 貴司(広島経済大学助教)

 

1.日本語史研究と古文献

 日本語学は言語としての日本語を研究する学問分野である。現代日本語はもちろん、直接聞くことのできない古代の日本語についても研究の対象となる。

 現代では直接聞くことのできない古代の日本語を調査するとき、その資料としては古文献などの文字資料や、現代日本語および同系統の言語などが選ばれ、様々な資料を参照することとなる。その中でも古文献を使用する方法は、そこに記された言語の年代が比較的よく分かるので、広く用いられている。

 古文献にも様々な種類がある。なじみの深いものとしては『伊勢物語』『源氏物語』等の王朝文学作品が挙げられる。しかし、それらの多くは複数回の転写を経ており、成立当初の言語の様相を留めていない可能性がある。その一方、仏典や漢籍などの漢文に付けられた訓点は、訓点を付けた当時の筆跡がそのまま残っている場合が多く、資料の年代がわかりやすい点から音韻史研究(発音の歴史の研究)や語彙史研究において特に重要視されている。

2.佼成図書館所蔵の古文献

 立正佼成会付属佼成図書館には多数の古文献が収蔵されている。その概要は『佼成図書館善本目録』(1995年、佼成図書館)によって知ることができ、所蔵古文献に関する情報を得ることができる

 佼成図書館所蔵の古文献は日本語学の研究者も参照し、研究に活用している。たとえば、日本語学研究で参照される『日本語学大辞典』(2018年、東京堂出版)にも佼成図書館所蔵本に関する言及があり、「仮名書法華経」の項(p.153)には、佼成図書館所蔵の次の古文献が取り上げられている。

  ⑴ 『和訓法華経』正保4(1647)年版を元とする手写本

  ⑵ 法華経和歌付きの仮名書き本8冊(18世紀後半)

  ⑶ 提婆達多品のみの印行本

 また『佼成図書館善本目録』(1995年、佼成図書館)p.135によれば、康治2(1143)年の奥書(書物の成立事情や来歴を巻末に記したもの)がある『仏母大孔雀明王経』(請求記号:古56-1/貴1-5C)には、古筆学研究者の小松茂美(1925-2010)と日本語学研究者の築島裕(1925-2011)による読解上の添え書きが付されているらしく、日本語学の研究者が実際に参照したことがわかる。このように、日本語学研究においても佼成図書館所蔵の典籍は参照され、研究者はその恩恵を受けている。本稿もまた、佼成図書館における文献調査によって成るものである。関係各位に御礼申し上げる。

3.佼成図書館蔵『めうほふれんげきやう』

 佼成図書館蔵『めうほふれんげきやう』(請求記号:古618-1~8/貴1-12D)は、平仮名で書かれた『妙法蓮華経』である。書名は内題(書物の巻頭に記された題)による。この経は、「によぜがも■いちじぶつ」(如是我聞一時仏、■は破損によって判読出来ない箇所)から始まる、字音直読(漢文をそのまま音読みする読み方)の経である。

 この本は巻第一から巻第八まで全て残っている完本である。ただし、巻第一の一部(60行目と61行目の間の一紙)が巻第六の中に入り込んでいる(巻第六の35行目から82行目)。

図1 佼成図書館蔵『めうほふれんげきやう』

 この経には宝暦10(1760)年に増上寺で曇龍(1721-1772)が記した巻末識語があるので、この経の書写時期は宝暦10(1760)年が下限であると考えられる。巻末識語によると、この経は「中尾氏」が書写したものであるという。この「中尾氏」については同識語に「中尾氏名平岡東都人」とあり、江戸の人であることが推測できるものの、それ以外の素性は不明である。さらに調査する必要がある。

 関連文献として、奈良県の公益財団法人阪本龍門文庫所蔵『仮名書き妙法蓮華経』(請求記号:1-18)が挙げられる。阪本龍門文庫本も、佼成図書館本と同様に字音直読の平仮名書き法華経である。

 阪本龍門文庫本は江戸初期の版本(印刷された本)であり、写本である佼成図書館本とは異なる。また阪本龍門文庫本は折り本(紙を蛇腹状に折って仕立てた本)であり、佼成図書館本は巻子(巻物)である。大きさも佼成図書館本の方が小さく、外形上両本は異なっている。

 しかし、両本は行取りがほとんど同じである。例えば、巻第八の観世音菩薩普門品の16行目から両本を対照すると、よく一致していることがわかる(図2)。また全巻を調査しても、両本の行取りが異なる部分は、次に挙げるもので全てである(行頭の文字が異なる行番号を挙げる)。

  巻第一: 121-123、288-291、293、312-313、317、330-332

  巻第二:(行取りの違いなし)

  巻第三:(行取りの違いなし)

  巻第四:(行取りの違いなし)

  巻第五:477

  巻第六:(行取りの違いなし)

  巻第八:(行取りの違いなし)

  巻第九:92

図2 両本の対照(巻第八、16~20行目)

 巻第一に行取りの違いがやや多いものの、行取りの違いが生じた後にすぐ修正され、両本の行取りはまた一致するようになる。巻第二から巻第八にいたっては、ほとんど行取りの違いがない。

 行取りが異なるところは、いずれもスペースの関係で一行に収まらなかった部分を次の行に送ったものと考えられる。次のように、阪本龍門文庫本と同様の行取りを行おうとしたところ、スペースの余裕がなく無理矢理詰める形になったために、一度書いた字を擦り消して次の行に送った箇所もある(図3)。

図3 一度書いた字の擦り消し

 また、古い表記法からはずれる表記法が、両本で一致する場合がある。次の例は、古く「せう」で表記されていた「簫」字を「しやう」で表記した例であり、この表記が両本で一致している。用例中の漢字は『大正新脩大蔵経 第九巻 法華部全 華厳部上』(1925年、大正新脩大蔵経刊行会。1960年の再刊による)によった。

   しやうちやくきんくうご

   (笛琴箜篌、巻第一:399行目)

 これらの一致は偶然には起こらない。おそらく佼成図書館本は、阪本龍門文庫本と同種の版本を元に書写されたものと考えられる。

 行取りまでもよく一致させている点で、佼成図書館本は忠実な転写本であると言える。しかし、本文の内容は両本で完全に一致するわけではなく、平仮名の字体の違いや仮名遣いの違いなどが随所に見られる。この違いは佼成図書館本の書写者「中尾氏」にとって、改変しても問題がないようなものであったと考えられ、この部分に当時の言語の様相がよく表れている可能性がある。阪本龍門文庫本との相違点に注目して調査をすすめることも有益であろう。

4.仮名表記によって音韻史研究をする方法

 平仮名や片仮名で書かれた文字資料を音韻史研究の資料とする場合、文字の使われ方を観察することでその発音を推定することになる。ただし、仮名で書かれた資料のみを頼りとすることはできないので、日本語をローマ字などで表記した資料がある時代には、他の資料で明らかになっている事実と突き合わせながら研究することになる(キリスト教布教のために作成された「キリシタン資料」と呼ばれる資料群ではローマ字で日本語が表記されており、室町時代語研究ではよく言及される)。

 仮名による音韻史研究の一例として、平安時代の後期ごろに発生したとされる「オ」と「ヲ」の合流について取り上げる。

 ア行の「オ」とワ行の「ヲ」は古代において発音が異なっており、ア行の「オ」の発音は[o](現代日本語の「オ」のような発音)で、ワ行の「ヲ」の発音は[wo](現代では「ウォ」で表記される発音)であった。この二種類の発音が異なっていた時代には、ア行の「オ」は必ず「オ」で表記され、ワ行の「ヲ」は必ず「ヲ」で表記されていた。この発音が区別されなくなったのは11世紀初頭頃で、一旦[wo]に合流する(その後江戸時代に、現代語と同様の[o]に変化する)。すると、[wo]という一つの発音に、「オ」と「ヲ」という二つの文字を使うことができるようになる(図4)。

図4 [o]と[wo]の合流と表記

 [o]と[wo]の合流時期が11世紀初頭とわかるのは、語頭の「オ」と「ヲ」の表記の混乱例がこの頃の文献に認められるからである。そのような例として、古く「ヲサム」で書いた「治」字に対して、「サム」という訓点が加えられた例が、石山寺本『法華義疏』長保4(1002)年点にあることが知られている(大矢透編『仮名遣及仮名字体沿革史料』1909年、国定教科書共同販売所、p.11)。

 このような表記の混乱状況をもとに、音が合流する過程を知ることができる。以下、江戸時代の佼成図書館蔵『めうほふれんげきやう』の表記が、その時代の音韻的状況をどのように反映しているのか見てみたい。

5.『めうほふれんげきやう』の言語的特徴

 まず取り上げるのは、「四つ仮名の合流」と言われる現象である。「四つ仮名」とは、「じ・ぢ、ず・づ」のことを指す。「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の発音上の区別は室町時代まで保持されたものの、江戸時代初期頃には失われる。現代日本語の共通語においては「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」がそれぞれ同音になっており、仮名遣いによる書き分けしかない。

 『めうほふれんげきやう』には古く「ぢ」で書かれた箇所を「じ」で書いた箇所が見られるので、『めうほふれんげきやう』書写の時点では「四つ仮名」の区別が失われていたと考えられる。

  ぢ→じ

  じやうしゆしつじきぎやう

    (常修質行、巻第五:282行目)

  じ→ぢ

  ごぢぢよせん

    (護持宣、巻第四:17行目)

 また、「オ段長音の開合の合流」と呼ばれる現象についても確認できる。オ段長音には室町時代頃まで、「開音」と「合音」と呼ばれる区別があった。「開音」と「合音」は、歴史的仮名遣いでそれぞれ次のように書かれたものである。

  開音:「 a う」(「あう」「かう」「あふ」「かふ」など)

       「 i やう」(「きやう」「しやう」など)

  合音:「 o う」(「おう」「こう」「おふ」「こふ」など)

       「 i よう」(「きよう」「しよう」など)

       「 e う」(「えう」「けう」「えふ」「けふ」など)

  「オ段長音の開合」は江戸時代に入る頃に区別が失われると考えられている。これについても次のような用例から、『めうほふれんげきやう』では区別されていないことがわかる。

  開音→合音

  ぐそうさんじふに

    (具三十二、巻第五:81行目)

  せうひらうや

    (疲勞耶、巻第五:411行目)

                          ほか

  合音→開音

  くわうさんいちじやうだう

    (廣讃一道、巻第一:457行目)

  みやうかうくぐ

    (好供具、巻第三:185行目)

                          ほか

6.今後解明したい課題

 佼成図書館本『めうほふれんげきやう』では、機械的に表記が統一されている部分がある。

 例えば、オ段拗音の長音(オ段拗長音)は、江戸時代では「eう」(「えう」「けう」「せう」など)と「i よう」(「よう」「きょう」「しょう」)の発音の区別がなく、一種類になっていると考えられている。そのため、江戸時代のオ段拗長音表記は「e う」と「iよう」で揺れることが多い。しかし、佼成図書館本『めうほふれんげきやう』では、「i よう」に由来するものは「i よう」と表記され、「e う」に由来するものは「e う」と表記される傾向がある(表1)。

 発音に違いがない時代において、このように規則的に表記されていることを説明するためには、何らかの学問的な原理によって書き分けられていると考える必要がある。本文献にはオ段拗長音以外にも規則的な書き分けを行っていると考えられる部分があるので、まずはその背景にある学問的な原理を明らかにしたいと考えている。

 このような表記に関する学問的原理を明らかにすることで、本文献を活用した日本語研究が深化するものと考えられる。

表1 『 めうほふれんげきやう』のオ段拗長音表記

 幸いにも日本語学研究者は、古い時代の日本語を知るための古文献に恵まれている。未発表の古文献も含め、それらを活用した研究が望まれる。また研究文献に恵まれているのは、貴重書保存に対する文献所蔵者各位のご尽力の賜である。また、大切に保存された貴重書を快く公開してくださるご厚意に、心より御礼申し上げる次第である。

 参考・引用文献

   大矢 透編『仮名遣及仮名字体沿革史料』(1909年、国定教科書共同販売所)

   佼成 図書館編『佼成図書館善本目録』(1995年、佼成図書館)

   高楠 順次郎ほか編『大正新脩大蔵経 第九巻 法華部全 華厳部上』

   (1925年、大正新脩大蔵経刊行会。1960年の再刊による)

   日本 語学会編『日本語学大辞典』(2018年、東京堂出版)

◆プロフィール◆

坂水 貴司(さかみず たかし)(平成元年生)

  山口県に生まれる。広島大学教育学部卒業。広島大学大学院教育学研究科博士課程後期修了。博士(学術)。現在、広島経済大学助教。

  日本漢字音史を研究のテーマとする。論文に「室町時代における「数」の漢音形について」(『訓点語と訓点資料』138 訓点語学会、2017年3月)、「清原宣賢書写本に見る漢音形の衰退について」(『国文学攷』231 広島大学国語国文学会、2016年9月)などがある。

(『CANDANA』281号より)

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