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「明日への提言」

宗教者と市民をつなぐ宗教研究

弓山 達也(大正大学人間学部教授)

■日本で宗教を研究すること

 宗教を研究しているというと、この分野の専門家でもない限り、相手は、たいていは「何か信仰があるのですか」と恐る恐る聞いてくる。日本人の7~8割は宗教に無関心という意味で「普通の感覚」なら、宗教を研究しようというには、何か特別な理由-そう日本人にとって信仰は特別な理由-があると想定される。ここで宗教研究はお決まりのフレーズがある。「宗教を客観的に研究するのです」。

 宗教にあまり関心のない人は、この答えに安堵の胸をなで下ろし(私の目の前の人は多くの日本人がそうであるように無宗教の「普通の人」なんだと)会話はここで終わる。しかし少しでも宗教に関心のある人、例えばヨガや瞑想など東洋の叡智に期待を寄せていたり、癒しやスピリチュアリティに興味を持っていたり、寺社巡りをしていたりする人からすると、何か自分が大切なものを「客観的に」つまりモルモットのように扱われた感じになる。さらに信仰者からすると、その気持ちは一層強まることであろう。

 言うまでもなく宗教研究は、できるだけ正確かつ誠実に宗教に向き合い、その成果を研究者および市民に発信してきた。そして日本の宗教研究は、何が良いとか悪いとかという判断や、特定の宗教教団や政治から自由というくらいの意味でリベラルであり、価値中立とデタッチメント(対象に関わらないこと)を特徴とする。しかしもっともらしいようで、実は市民はこれでは納得いかないばあいもある。宗教に関わっていないことでホッとした一方で、専門家たる宗教研究者に「危ない宗教」に対する見識や逆に自らの魂の安寧に役立つ宗教への知識を求めたくなる。言うまでもなく前者は研究者の価値観を提示するため価値中立の原則に抵触し、後者は特定に宗教教団を利したり市民に必要以上に近づいたりするゆえにデタッチメントに背くことになる。

■研究と実践のスパイラル

 しかし価値中立とデタッチメントは金科玉条の原則なのだろうか。宗教は人間の幸福に大きく関わり、その限りにおいて宗教を研究するということを人間の成長や喜びや安心を理解することだと考えるならば、宗教研究は、教育学、福祉学、看護学などのヒューマンケアの分野に近い。しかし宗教研究は長いこと価値中立とデタッチメントの原則を社会学や心理学に範を求めてきた。宗教社会学や宗教心理学という領域はあっても、宗教教育学、宗教福祉学、宗教看護学という言葉は、いかに宗教系の学校・福祉施設・病院があっても、寡聞にして使われることはなかった。

 しかし宗教研究が近接学問と考えることの少なかった教育学、福祉学、看護学に目をやれば、価値中立とデタッチメントはそれほど自明のものではなく、むしろ研究と実践とが密接に結びついていることがわかる。その一つに「アクションリサーチ」という考え方がある。アクションリサーチとは「対象者の実践に積極的に関与し、対象者の変容過程を実践的に研究」(秋田喜代美『教育研究のメソドロジー』東大出版会、2005年、p.8)することであり、問題の特定、分析、評価と反省、行動、計画のスパイラルを描く(R. ハート『子どもの参画』萌文社、2004、p.91)実践的研究の理論・手法である。具体的には教室で教育学者と教師・子どもたちが学校再生に関わり、社会福祉の研究者がNPO を通して住民と共に地域問題に取り組み、その変化を記述し新たなプロジェクトを模索する姿をイメージしてもらえばいい。

 実際、この10年で当該分野ではアクションリサーチの特集が目に付き、2008年の『人間関係研究』7号(特集:アクションリサーチ)をはじめ、2006年の『心理学評論』vol.49,no.3(特集:質的心理学とアクションリサーチ)、2001年の『インターナショナル・ナーシング・レビュー』vol.24,no.5(特集:アクションリサーチ)や『看護研究』vol.36,no.4(焦点:看護実践・理論・研究をつなぐアクションリサーチ)などがある。もちろんフィールドワークや参与観察などの「現場の学」はこれまでもあったが、そこでの研究者はできる限り透明な存在であることが望まれた。しかしアクションリサーチでは、当然起こりうる研究者の介在(例えば小学校の調査に教育学者がやってきたら、彼/彼女は透明であるどころか学校の日常を一変させるに違いない)や何らかの変革、さらにはその変革の背景にある価値観のすり合わせが行われる。フィールドワークや参与観察などでネガティブに語られてきた研究者の存在をむしろポジティブとらえるといっていい。

 ヒューマンケアの分野では、巡回指導、介入的カウンセリング、相談といった研究対象への働きかけが研究上も実践上も不可欠になるので、アクションリサーチはそれほど違和感がない。むしろ研究と実践のスパイラルが新しい可能性をもたらすことが予想される。翻って宗教研究では、同じように人間の営みを観察しつつも、それに介入することは遠ざけられた。そこには教育・福祉・看護よりも、宗教がより人間の根源的なレベルに存するという、ある意味で過信(筆者は教育・福祉・看護と宗教に高低はないと考える)と政教分離を念頭に個人の価値観への介入を避ける傾向があるとみていいだろう。筆者が本誌に執筆することすら、教団付置研究所に関わるということで忌避する向きもあり、そうした大時代的な体制を筆者は皮肉を込めて上記に「リベラル」と形容した。しかし宗教研究の研究対象(多くのばあいは教団や宗教者となる)との協働の中から、また宗教研究の成果の発信相手(研究者のみならず市民も含む)との協働の中から、新たな研究像が見えてくるのではないかと思う。

■自らの実践から

 筆者が、こうした実践と研究のスパイラルを意識しはじめたのは、1990年代から㈶国際宗教研究所や㈶全国青少年教化協議会に研究員として関わったことが大きい。いずれの財団も宗教者と市民の間に立ち、研究の成果をどう還元するかを念頭に置いていた。しかしこうした財団規模に比べればささやかであるが、筆者個人としての実践の新たな展開は2010年から始まった。

 この年の4月から筆者は勤務する大正大学が支援するNPO 法人でもくらしぃの理事として、大学から徒歩数分のところにある、この法人が運営するコミュニティスペース「大正さろん」に毎週火曜日に常駐することとなった。その経緯や活動の一端は星野壮・弓山「大学と市民活動」(叢書『ソーシャル・キャピタルと宗教』第3巻所収、明石書店、近刊)に譲るが、はからずもここで実践と研究について、宗教研究者として考えることとなった。というのも大正さろんでは、正午から18時まで地域の人々が自由に使えるスペースとして、また学生が地域にボランティアや調査に行く際の足がかりとして機能しているが、地域住民に求められていたのは筆者が研究している「何か宗教的なもの」(宗教教団ではなく癒しやスピリチュアリティ)であった。

 筆者は大正さろんで学部のゼミと大学院のゼミを開講している。学部は社会貢献や地域連携に関心のある学生のニーズに沿って演習を展開し、大学院は僧籍を有する院生が受講しているため、旧暦4月8日(釈尊降誕会)に花まつりの実施、そこでのアンケート分析を行ってきた。2010年・11年に花まつりを開催した際、日頃は大正さろんに来ることのない高齢者が多く参加したこと、中でも行事より院生僧侶との話に長い時間が割かれたこと、こうした仏教的なイベントを通して「何か宗教的なもの」を望む声が多かったことが特徴的であった。

 2012年には、意図的に次のイベントにつながるアンケートをしつらえ、花まつりへの感想よりも積極的にニーズを探る工夫をした。回収方法も書いていただく形から、スタッフがお茶を勧めながら四方山話を聞くなかで(事前にアンケートである旨は伝え)情報を収集した。そしてアンケートを検討し、①仏教系大学としてのイベントで、②価値や体験が共有でき、③単発に終わらず繰り返し参加できることに配慮し、新たな企画を準備することにした。こう書くと簡単な議論に思えるかもしれないが、①とても○○宗という宗派色を出すのか、原始仏教のような「そもそもお釈迦様は」という打ち出しにするのか検討が重ねられ、宗派色を排した方向性に定まった。②も「何かを一緒にやった」という単なる体験を共有するのか、「仏教は素晴らしい」という価値を共有、さらには信仰を勧めるところまでいくのかが議論となった。 一ヶ月の検討・議論を経て、また相前後して大正さろんを訪れた方に相談しつつ、さらに学部生、留学生、他大学生にもプレイベントを体験してもらい、その手応えを探りながら、私たちは「お坊さんといっしょに ほとけ様をつくろう」という、木製粘土を用いた握り仏作成ワークショップを企画することになった。花まつりは行事なので、僧侶とスタッフがいればよかったが、今回はアートの性格もあり、画家を副職とする社会人院生や美大出身の院生僧侶の協力を特に必要とした。大学に出入りしている市民講座のコーディネータに受講者募集を持ちかけると、即座に定員15名はいっぱいとなり、私たちのニーズ把握の確かさを証明することとなった。当日の模様は花まつりの報告も含め、大正大学宗教学会のブログ(http://www.taisho-shukyogakkai.net/)研究活動報告欄を参照されたい。

■宗教者と市民との交わり

 一連の企画はささやかではあるが、大仰に言えば2010年からコミュニティスペースという大学外の異空間で院生僧侶らとともに活動を展開しつつ、暗中模索の中で筆者の研究が目に見える形としてたどり着いたものである。結論を急げば次の2点が成果として確認できよう。

 第一に、市民と関わり、そのニーズを聞く中で、宗教情報については実は専門家(研究者あるいは宗教者)/市民という二分法は、あまり重要ではないことが判った。近年の宗教書ブームに見られるように専門家はだしの市民はいくらでもいるし、事実、花まつりの際にはそうした市民から逆に教えてもらう場面もあった。また一つの企画を構成する中で宗教研究者と宗教者は観察する/されるという関係ではなく、さらには研究者と市民は情報の発信/受信という関係ではなく、ともによきパートナーであり、研究と実践を繰り広げられるということも理解できた。そのことは研究者とその研究対象である宗教者、あるいは研究者とその成果を享受する市民というデタッチメントの図式を揺るがすものと考えられよう。

 第二に、東日本大震災以降、慰霊や追悼そして地域の祭りの担い手としての宗教者の役割に注目が集まりつつも、宗教団体そのものへの警戒心が持続している中で、宗教研究はむしろこの宗教/市民のただ中で両者を仲介する役割が期待されていることが指摘できよう。私たちのニーズ調査でも、市民からは宗教教団への敷居の高さとそこへの期待・憧れの声を多く収集することができた。震災直後に宗教者災害支援連絡会という超宗派の連絡会がいち早く宗教者の情報交換の場として立ち上げられ、日本を代表する宗教研究者たちによってそれが担われていることは、私たちのささやかな営みが目指す一つの方向と考えられる。同時に東北大学で、市民の悲しみに向き合う宗教者の育成である臨床宗教師制度が着手され、ここにも宗教研究の知見が生かされようとしているが、これも研究と実践のスパイラル抜きには実現しないことであろう。価値中立ではなく、どのような価値が共有されるかが求められているのである。

 宗教研究が上記の意味で宗教者と市民と向き合う時、豊かな宗教文化の広がりがもたらされるに違いない。


◆プロフィール◆

弓山 達也(ゆみやま・たつや)       (1963年生)

 奈良県生まれ。法政大学文学部卒業。大正大学大学院単位取得退学し、2000年に博士(文学)を取得。日本学術振興会特別研究員などを経て、2001年、大正大学助教授となり、現在、教授および同大学鴨台プロジェクトセンター参与。エトヴェシュ・ロラーンド大学客員教授としてブダペストに赴任中。

【主な著作】『いのち 教育 スピリチュアリティ』共編著、大正大学出版会、2009年

『現代における宗教者の育成』編著、大正大学出版会、2009年

『天啓のゆくえ』日本地域社会研究所、2005年

『スピリチュアリティの社会学』共編著、世界思想社、2004年

『癒しを生きた人々』共編著、専修大学出版局、1999年

『癒しと和解』共編著、ハーベスト社、1995年

『祈る ふれあう 感じる』共著、IPC、1994年

(CANDANA251号より)

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