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「明日への提言」

原子力と現代の宗教者の使命

眞田 芳憲(中央大学名誉教授)

 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、未曾有の被害をもたらした。多くの尊い生命が犠牲となり、自然環境・社会環境・生活環境が破壊された。今や、大震災からすでに2年半有余の歳月が過ぎようとしている。しかし、その悲惨な傷痕は今なお、いたるところに残っている。特に福島県の人々は地震・津波・原発事故・風評による被害の四重苦の中で精神的にも肉体的にも、そして政治的にも経済的にも社会的にも苦しい生活を強いられてきた。それなのに、今度は「風化」という忘却の彼方に追いやられ、この国やこの国の人々から見捨てられようとしている。彼らは、今や五重苦の苦難の淵にたたずみ、将来の見通しも立たない不安な生活の中で、「いつになれば人間としての生活が取り戻せるのか」と自問しつつ生きている。世界宗教者平和会議(World Conference of Religions for Peace;Religions for Peace)日本委員会は、大震災の発生後、直ちに「東日本復興支援タスクフォース」を立ち上げ、現地に支援センターを設置して常駐のスタッフを派遣した。それと時を同じくして、同委員会は取組むべき課題を明確にする復興支援方針を策定し、①「失われたいのち」への追悼と鎮魂、②「今を生きるいのち」への連帯、③「これからのいのち」への責任、の3項目の行動目標を設定した。そして、被災地域の宗教・宗派を異にする宗教者、医療関係者や福祉関係者および復興支援の諸種のNPO 法人の活動家と連携し、適切な情報の提供と共有を活用して協働し、さまざまな支援活動を展開してきた。

去る5月、私は、東日本の被災地の中でも最も復興が遅れ、いまだ生活再建の見通しの立たない福島を訪れた。今回の目的は、WCRP日本委員会主催の「復興に向けた宗教者円卓会議 in福島」に参加し、被災者の人々の「生の声」に耳を傾け、これまでの支援活動を総点検し、今後取り組むべき課題を学ぶこと。いま一つは、円卓会議終了後、直接、被災現地を歩き、そこにある自然とそこに住む人々から彼らの痛みや苦しみを直接聴き、体験し、学ぶことであった。

初夏の訪れを告げる福島の惜春は美しかった。陽光は天地に満ち、空気は澄み渡り、風は爽やか、頬をそっと撫でていく。山の緑は萌えて、花は咲き乱れている。おそらく遠く離れた彼方には、紺碧の海が静かにキラキラと輝き、多種多様な魚群が豊かに乱舞を繰り広げていることであろう。

しかし、天にも地にも海にも、目に見えない、耳にも聞こえない、鼻にも臭いがない、手にも触れることもない、放射性物質の不気味な魔物が牙を剥き、魔の手で人々に挑み掛かり、今やすでに多くの人々が餌食にされている。いや、人間だけではない。大地も川も海も、野や畑や森も、鳥も家畜も牧場の動物たちも、魚も海藻も、生あるもの生なきものことごとく文明が生み出した放射性物質の毒に傷つけられ、砕かれ、無惨な姿をさらし、これからもさらし続けようとしていた。

福島の放射性物質汚染土の除染活動の指導者として復興活動を推進している常圓寺の阿部光裕師と会う機会に恵まれた。師の寺は、事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所からほぼ70km 離れた山麓にある古刹である。師の案内で、放射線量測定器を手にして、普段、人々が往来する山道を歩いてみた。

車をおりて、歩きだすと、急に「ピピー」と警告音が鳴り出す。「数値は?」と見ると、3μSv/h。これで驚いてはおられない。そこから1m も離れていない道路脇の草むらに測定器を当ててみる。数値は一挙に80μSv/h、場所によっては100μSv/hに跳ね上がる。寺の裏山の広い空き地には、街の住宅地で集められた汚染土を収蔵した800本余りの特殊ドラム缶がところ狭しと並び置かれていた。ドラム缶の蓋の上に測定器を当てる。数値は150μSv/hに急上昇。蓋を開けるととたんに、「危ない。近寄るな」と、測定器の警告音は鳴り止まない。

わが国で許容される被曝線量の基準では、一般の人の上限値は「年間1mSv」とされている。原発作業員や病院の放射線管理技師等に適用される労働安全衛生法規則に定められている基準では、上限は「1年間で50mSv、かつ5年間で100mSv」となっている。一度に高線量の被曝をするような事故の場合、100mSv を超えると癌のリスクが高まり、500mSvでリンパ球の減少がみられ、6000mSv(6Sv)で90%が死亡するとされている。先ほどの山道の80μSv/h の数値を年間にすると、700mSv の被曝線量になる。

福島の山道に佇み、眼下に広がる街並みを見て、そこに生活をせざるを得ない人々の心に思いを寄せるとき、被曝の心配のない東京の地に生活することの不条理に心が押しつぶされそうになる。東京は、福島の原発で生み出された電力の最大の消費地である。私たちはその恩恵を受け、大量生産・大量消費・大量廃棄をほしいままにし、便利で、安楽で、豊かな生活を享受している。

「東京が稼ぎ、原発は田舎、その格差は金で埋め合わせ」という言葉がある。原発の所在地には、貧しいが故に、原発の「安全神話」に籠絡され、地域の「経済利益」に眩惑されて原発の設置を引き受けざるを得ないという不条理な現実がある。この現実は、一たび事故が発生すれば、被災者たちは被害者であるにもかかわらず、その事故処理も核廃棄物の最終処分もすべて彼らに引き受けることを強要するという不条理が押し付けられることになる。

電力の最大消費地で安楽で、便利な生活を享受している私たちは、増え続ける核廃棄物に目を背け、核廃棄物と事故のリスクを引き受けつつ電力を供給している福島の人々の犠牲の上に生活している。私たちの豊かな物質的生活は、彼らの苦渋の生活の犠牲の上に成り立っているのではないのか。他者の貧困の上に繁栄を謳歌する─これほど非倫理的で、偽善的なものはないのではないのか。私たちは、他者の犠牲の上に花開いた繁栄という幻影に深く酔い痴れているだけではないのか。私たちは、自分自身が加害者の一員である事実を忘れ去っているのではないのか。

現在、わが国ではトルコをはじめ中東諸国、そしてインドへの原発輸出がわが国の経済成長戦略の柱の一つに据えられている。わが国の首相は、一方で、国内向けには「できる限り原発依存度を低減させる」(2月28日衆議院での安倍晋三首相の施政方針演説)と表明し、他方では、福島原発での最近の汚染水漏れや停電による冷却システムの停止、そして何よりも核廃棄物の最終処理の問題等、原発の安全度が否定される事態が次から次へと発生しているにもかかわらず、「原子力の安全向上に貢献していくことは日本の責務」と、日本の原発の安全性を売り込んでいる。

儲けのためならば、経済利益のプラスのためなら、そして豊かな生活さえできるならば、いまだ福島原発事故の避難者が16万余もいるという事実に蓋をして、「安全ですよ」と二枚舌を弄して原発売り込みに血道を上げている。

中国の孟子の言葉に、「飽食暖衣、逸居して教うることなければ、則ち禽獣に近し」(『小学』内篇・立教第一)という教えがある。飽きるほどものを食べ、寒さ知らずの温かな衣類を着て、だらけた生活をして、人間として生きる道を守らないような者は、鳥や獣と変りはないということであろう。かつて“economic animal”という言葉が流行したことがあった。日本の最近の世情を見ると、「アニマル」「禽獣」ならばまだ可愛い気がする。むしろ「野獣」という言葉のほうが、“economic beast”と言ったほうが、はるかに正鵠を射ているように思えてならない。

原発の存廃や原子力エネルギーの消費は、福島や日本に固有の問題ではない。現代世界の、そして現代文明に共通する普遍的課題である。人間は誰でも幸せになりたいと願っている。自分が幸せになりたいと思うならば、他者も自分と同じように幸せになることを願っているはずである。私たちは、他者の犠牲の上に自分の幸せはあり得ない。福島の原発事故は、私たちに人間とは何か、生きるとは何か、幸せとは何か、社会とは、国家とは何か、文明とは何かを根源的に問うている。


水俣の詩人坂本直充は次のように語りかけている。(『坂本直充詩集 光り海』)

現代文明という名の

乗り物は

あなた自身なのだ

文 明を欲望のかけらだけで組み立ててはならない

水 俣は未来の方程式にならなければならない


福島を「未来の方程式」の定立の起点とするためには、第一に、原子力エネルギーという現代科学技術文明の原罪を凝視することである。「安全神話」という虚構の上に人間自身が自分で制御できないものを生み出したことに対する畏怖の感覚を取り戻すことである。人間は、人間を凌駕する存在に畏敬の念を捧げ、自然界での人間の持ち場を想い起こすべきである。

第二に、核廃棄物処理の問題がある。核廃棄物は、最初の1000年間厳重に管理しても、放射性物質が自然状態にあるものの放射能と同じ水準に戻るには10万年かかると言われている。今、原発生産地の人々の犠牲の上に原発の利益を享受している現代世代の私たちは、未来世代に対しても永久に有毒な核廃棄物と膨大な負債を残すことになる。未来世代の犠牲の上に、現代世代が安楽かつ便利な生活を享受することは、倫理的に、いや人間として許されるのであろうか。

第三に、未来世代に「生きる希望」を示すとすれば、私たちは何をすべきであろうか。核廃棄物を管理するにしても、仮に最初の1000年に限定しても、その期間の点検・管理・補償等の費用は誰が負担するのか。これらの費用を現在の電気料金に上乗せして、これを基金として残すとしたら、現在の自分の利益のみに酔い痴れている人たちに理解が得られるであろうか。原発を止めるか止めないか。未来世代に生きる希望を抱かせ、彼らに地球の運命を託するとすれば、答えは明らかである。

第四に、倫理の復権である。「倫理」(ethic)に相当するギリシア語の「エートス」に従えば、「住み慣れた場所」「安心して住める場所」を意味する。私たちが安心して平和で、安全な生活を享受できるためには、「自分が他者からされたくないことは、他者に対しても行なってはならない」という否定的表現から、「自分にしてもらいたいことを他者にしなさい」という肯定的・積極的・連帯的表現に転換していかねばならない。今、倫理の真空化、責任の空洞化が問われている現代社会にあって三思三省すべきは、かつてマハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)が説いた七つの社会的罪の問いかけである。


1 原則なき政治

(Politics without principles)

2 道徳なき商業

(Commerce without morality)

3 労働なき富

(Wealth without work)

4 人格なき教育

(Education without character)

5 人間性なき科学

(Science without humanity)

6 良心なき快楽

(Pleasure without conscience)

7 犠牲なき信仰

(Worship without sacrifice)


私たちは、彼のこの問いかけに対し、いかに答えるべきであろうか。

今日こそ、社会の弱者に寄り添い、傾聴し、手を差し伸べて連帯を強め、預言者として社会に真理を伝え、人々に生きる指針を示して勇気づけ、未来の希望を呼び起こし、これを分かち合うことが問われている時代はない。これこそが、宗教者の課題であり、責務であろう。まことに宗教者の責任は大きく、その使命は重い。


◆プロフィール◆

眞田 芳憲(さなだ・よしあき)       (1937年生)

1937年、新潟県に生まれる。1959年中央大学法学部卒業、1964年中央大学大学院博士課程単位取得満期退学。1968年、中央大学助教授を経て、1974年教授。法学部長(1983-1987)、日本比較法研究所所長(1990-1993)を歴任し、現在、中央大学名誉教授、中華人民共和国政法大学比較法研究所客員教授(終身)、世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会理事および同平和研究所所長。中央学術研究所顧問。

専攻分野:法制史、ローマ法、イスラーム法、比較法文化論。

著書:『イスラーム法の精神』(1985年)、『イスラーム 法と国家とムスリムの責任』(1992年)、『平和の課題と宗教」(共著、1992年)、『共生と平和の生き方を求めて』(共著、1999年)、『ローマ法の原理』(共訳、2003年)、『生と死の法文化』(編著、2010年)、『人は人を裁けるか』(2010年)、『東アジア平和共同体の構築と国際社会の役割―「IPCR 国際セミナー」からの提言』(監修、2011年)、ハッドゥーリ『イスラーム国際法 シャイバーニーのスィヤル』(訳、2013年)など、著書・編著・訳書多数。

(CANDANA255号より)

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